藤田五郎でござる。さんの

「三谷『新選組!』は面白かった!!」


~ その壱 ~

 

「新選組!」総集編を観て全49話を振り返ると、改めてこれは、数ある新選組の小説や漫画・映画とは視点の違う物話だな、というのが相も変らぬ第一印象でした。また本格的な時代劇として創るよりも現代の若者をそのままあの時代に置くことで、あの幕末という歴史上稀有な時代を若者の視点から描いてみようという意図を持って創っているのではないか、というのが第二の印象でした。

 

小説でも映画でも過去に多数存在する「新選組」というテーマを、今回更にドラマ化する手段としてはこれも「あり」なのでしょう。従来「新選組」は記録が少なかったため、小説や漫画・映画の脚本は、子母澤寛や永倉新八の記録をベースにして、つなぎの曖昧な部分を創作したものが多かったようです。その結果非常に内容が似かよってしまい、あるいは歴史を語るだけで人物に踏み込めないものも多かったように私は感じております。

その点、三谷「新選組!」は世間が周知するストーリーを根幹に置きながら、登場する人物一人一人を非常に丁寧に描写して森村誠一の言うところの「人間組」を1年がかりで創り上げたところが、かくも新鮮で従来とは一味違った新選組ドラマに仕上がった理由であると言えないでしょうか。ここで「小説とはここが違う」「映画とはあそこが違う」と「間違い探し」みたいなことをするのは野暮というものでしょう。新解釈(あるいは冒険的解釈)が多いドラマであることは事実ですが、これはこれで歓迎したいと思います。

 

反面「不逞浪士の取り締まり」場面といったお決まりの描写や「新選組の人的規模感」(その他の隊士の描写)が少なくなり、そのあたりがもうちょっとビジュアルに観れたらよかったなあと感じたことも事実です。全49話を観ていても「新選組」の仕事って何?新選組隊士ってどのくらいいるの?という部分が視覚的にあまり感じられなかった、その点のみ残念。

 

以上の理由から、今回感想を書くにあたり、三谷幸喜さんのアプローチに敬意を表して、「新選組」を「人間組」としての視点で観ることにしたいと思います。


~ その弐 ~

 

三谷「新選組!」、これは三谷さんも言っているとおり、「新選組」とはいっても、近藤勇の物語でした。生まれた時の事までは描かれていないまでも、第1話は島崎勝太が近藤勇に改名した時に始まり、最終回では近藤勇が人生を終えた瞬間に「完」。そして49話の物語は近藤を中心に、その周囲に集う人々、特に試衛館の8人プラス斉藤一を核として展開していきました。

そしてその三谷「新選組!」では、1年の物語を通して変化した(あるいは成長した)人物と変わらない人物がはっきり分かれています。試衛館の8人プラス斉藤一。私はこの中で変化した人物として近藤勇、山南敬助、沖田総司、斉藤一、藤堂平助の5人があげられると思うのですが、いかがでしょうか。登場した段階である程度完成していた人物と未完成な人物、このうち未完成な人物の成長、そして完成していた人物あるいは成長できかった人物との共振と軋轢が、新選組の発展と破綻に連動しているような気がします。「新選組」を「人間組」と見るにあたり、次回は彼ら5人がどのように変わり、それが「新選組」にどのように影響したかについて所見を書きたいと思います。

 

話は変わりますが、総集編では全49話で冒頭以外極力排除されていたナレーションが入りましたね。さすがに35時間以上のドラマを4時間弱にカットするとナレーションでつながなければストーリーがわかりにくくなってしまうからでしょうか。「壬生義士伝」では斉藤一(佐藤浩市)のナレーションで物語が展開しましたが、このドラマでは沖田みつ(沢口靖子)が語り部をつとめていました。他にも永倉や斉藤、島田が語るスタイルもあったかもしれません。しかし近藤の物語を語るにあたり、第1話から近藤を温かく見つめ続けてきたおみつさんが語るのがやはりいちばんふさわしいのでしょう。「つね」さんではあまりに悲しくなりそう、「ふで」さんではちとコワイ。

また明治5年に子供たちがチャンバラをやっているシーンがありました。その中で「歴史は勝者の側の物語である」という現実を垣間見るような語りがありましたですね。歴史の中では落日の仇花として描かれることの多い新選組ですが、三谷脚本の中では紛れもなく前向きな、情熱的な、そして真摯な人々の集合体として描かれていたことも、今回の感動の源なのかもしれません。去年1年間かけて三谷幸喜が描こうとしたのは、その意味では新選組の名誉回復編と言えるのかもしれませんね。今まで歴史は勝者の側の物語であるという喩えの通りに新選組が認識されてきたのなら、三谷「新選組!」はあえて敗者の真実を語ってみようとしたのかもしれません。それも幕末の人々の目を通してではなく、現代の若者の目を通して。大河ドラマで完全版DVDが発売されるなど前代未聞ですが、この三谷幸喜のアプローチが支持された結果なのかもしれませんね。


~ その参 ~

 

近藤勇。まちがいなくこのドラマの中心でした。しかし、新選組を左右する事件は彼以外のところから端を発していたように思われます。ある意味、事態を収拾する役目が多かったみたいに感じましたが皆様の感想や如何。

 

従来、実直だが上昇志向が強く俗物と描かれることもあったようです。私など、「壬生義士伝」の近藤勇(塩見三省)が結構近そうだなどと考えていたくらいなのですが、今回三谷脚本で描かれた近藤は違いましたね。実直(ドラマではまっすぐという表現が多用されていました)であることは間違いないのですが、俗物とは程遠い、ある意味対極をなす設定であったように感じています。彼が抱いていたのは武士になりたいという強い願望と、幕末というコペルニクス的転換の時代に自分も何かを成したいという情熱でした。

これらはえてして「上昇志向」や「俗物」と評されがちですが、香取近藤勇の台詞を聴くと、また違った姿が見えてきます。

 

 「時代が大きく変わろうとしているのに、何をすればいいのかそれがわからない…」

 

これは試衛館時代のものですが、これに似た台詞はこの頃幾度となく聴かれます。これは時代が動いているこの時に、自分も何かをしたいという情熱があるのに、何をすればいいのかわからないという焦燥感を端的に表現していますが、この近藤自身「暗愚」の時期に続いて、このあと発言はこのように変わっていきます。

 

 「ご公儀のため身命を賭して尽忠報国につとめて参る所存です」

 

浪士組結成前後の台詞です。この頃は尊王と佐幕がごちゃ混ぜの発言が多いのですが、近藤自信後の公武合体に代表される尊王佐幕派であったためかもしれません。しかしこの頃、攘夷あるいは開国に関してはあまり明快な発言がなかったように私は記憶しています。

とりあえず、少なくとも国内的な問題に関しては、徳川家と天皇のために働けばいいという一応の拠り所を見つけた頃なのだといえましょう。これが新選組の思想的骨格となるはずでした。その後、その徳川家が揺らいだ後の発言が次のこれ。

 

 「薩摩や長州は薩長だけの新しい世界を作ろうとしている。それが許せない。」

 

王政復古の大号令の頃、伊東甲子太郎とのやりとりの中で言う台詞です。この後に、「新選組は身分に関係なく誰でも入れるように…」と続きますが、この、一部の独善的・独裁的な体制を廃すべしという考え方を近藤が発言したことに、私は驚いたものです。徳川家の260余年に渡る独裁制に殉じる覚悟だったはずの近藤がこう言うようになったか。そしてこの諸藩合議制的な考え方は薩長同盟を成立させる頃、坂本龍馬がいみじくも言った台詞でした。徳川幕府が無くなった後、近藤勇が坂本龍馬と同じような考えに至る・・・。

新選組が思想的に盤石であったような、そうでないような不安定感もこんなところから来るのかもしれません。トップに人情とそれに伴う求心力はあったが、思想と哲学が今ひとつだったということなのかなあ。


~ その四~

 

山南敬助。試衛館の面々を浪士組に、そして新選組に導いたのは彼でした。しかし、志なかばにして新選組を脱走。変化があったという意味では一番大きく変わってしまった人なのでしょう。彼の理想と土方の実務方針が全然ベクトルの違うものであったところに、悲劇の源があったというのが一般的な解釈のようではありますが。

 

 「新選組は私の手の届かないところに行ってしまった。」

 

この言葉が変化の原因のすべてのような気がします。

そして山南の思い通りの「新選組」になっていたら、もしかしたら新選組は全く違う歴史を辿っていたのかもしれない、そんな気がしました。あの「託す」の言葉が新選組で実現されていたとしたら・・・。また山南がそれを実現できるしたたかさを持っていたとしたら・・・。山南の思想が必ずしも御公儀に限定されたものではなかったことは、台詞の端々からみてとれます。また攘夷派というわけでもなかった。その意味では思想的に近藤とは相容れない部分があったかもしれません。しかし非常に紳士的でそれゆえに強引に突き進むことが出来ない人だったのですね。

土方に対し、観柳斎に対し、あるいは伊東に対しても然り。結果として、自分の居場所を失ってしまったのでしょう。秀才ながらも凡庸なジェントルマンの殻を破れなかった哀しみを感じました。

しかし、三谷「新選組!」でははっきりと顔の見える、思想の見える山南敬助にはなりましたね。そして間違いなく堺さんのはまり役のひとつといえるでしょう。私にとって一番印象に残る人物でした。

 

沖田総司。変化というより成長したといったほうが良いのでしょう。

彼の成長は、後半ではポシティブな面では斉藤一の存在、ネガティブな面では労咳の発病が原因となっている気がします。年下ながら自分よりはるかに「プロ」の斉藤を目標にしていたことは、沖田自身の台詞にもありました。黙々と、しかも確実に隊務をこなす斉藤に、「新選組隊士はかくあるべし」という理想像を見ていたことは確かだと思います。それは三谷さん自身が語るように、沖田の「斉藤化」と斉藤の「沖田化」という変化のクロスとなってあらわれます。そして、労咳の宣告。人間には、明日という日が来るのが当然と思っている人とそうでない人がいて、彼は後者となりました。生命の尊さを最期に身をもって学んだ一番組長は、仮に回復したとしても、もはや一番組長たりえなかったでしょう。思想的にではなく、武力的に新選組を支えた沖田にとって、精神的な牙を失うことはその存在価値の大部分を失うことに等しいのかも。

それしても、

 

 「僕は来年の平助が羨ましい。」

 

平助との別れで語るこの言葉が、哀しかった。藤原さんの演技のうまさも特筆ものでした。


~ その伍~

 

斉藤一。やくざ同然の荒んだ心が、新選組の中でしだいにピュアなものに変わっていったような気がしましたが如何でしょうか。隊旗の前で激した斉藤は、もはや一匹狼ではなく、ひたすら新選組を支えんとする魂の叫びを具現化していました。斉藤の「沖田化」はきっとこのようなところに現れていたのかもしれません。近藤・土方とぶつかる事はなかったですが、確実に後継者の道を歩んでいたのでしょう。

そして会津への転戦、近藤の首を奪還する任務。土方だけでなく斉藤も戦い続けていたのですね、新選組隊士として。近藤の投降で新選組の歴史が終わらなかったのは、土方部隊のみでなく斉藤の会津新選組の存在もあったのだと改めて認識しました。

 

 「生き残ったらどうする?」

 

徳川の、そして刀の時代が終わったことを告げる言葉が多かった中で、この言葉ほど時代の終焉を生々しく感じさせるものはありませんでした。

 

藤堂平助。2足のわらじを履くことになってしまった悲しみ。伊東甲子太郎の策略の一番の被害者なのかもしれません。試衛館のメンバーでありながら、新選組から分離して御陵衛士とならざるをえなかった不運。平助は試衛館のメンバーとして新選組で戦い続け、我々はそれを見て伊東道場から貸し出された門下生だったことを忘れていました。新選組の不安定さの一要因となってしまいましたね。

 

 「これでよかったんですよね。」

 

油小路での台詞は、「2足のわらじ」を清算するのに他に方法がなかったことを最後に確かめたかったものなのでしょう。

 

軍隊でいえば司令官・副司令官にあたるのが、近藤と土方。士官にあたるのが副長助勤(組長)。参謀役をやったのが山南と伊東。しかし参謀の思いの通りに隊は動かず、山南は追い詰められて脱走。伊東は見切りをつけて離脱。士官たる組長のうち、沖田は病で離脱。永倉は生来の頑固さから、また原田は主体性のなさ?から離脱と「新選組」は組織運営でまったくいいところがありませんでした。この30年後に日露戦争で日本海海戦が起こ

りますが、この時繰り広げられる組織運営(艦隊運営)の見事さとはえらい違いです。参謀を生かしきれなかったのは土方の実務方針とあわなかったことが主要因なのでしょうが、自分に理解できない部分は取り入れるより排除してしまう。新選組が土方の力量の枠を超えられないという結果になってしまいました。

しかし、そのあたりは小説と同様の解釈でありながら、三谷脚本は土方の人間性や苦悩をしっかり描いている点が殺伐とした印象を与えない仕上がりとなりました。

また、なしくずし的に崩壊する幕府とその結果悪役を引き受ける羽目になる新選組の悲劇を強調したことによって、今までの小説やドラマと一味違った感動を視聴者に与えることに成功しているように感じております。

 

いい映画を見終わった後、場内が明るくなったときの心地よい虚脱感と、現実に戻りきれない浮遊感がいまだに漂っております。もう一度、第1話からじっくりと、彼らの足跡をたどる旅をしてみようかと思いました。

最後に素敵な一年間をくれた三谷さんやキャスト・スタッフの皆さんと、言いたい放題を黙認してくれたこのサイトの管理者nobby殿に感謝の辞を表して、長々とした総括を終わりたいと思います。

ありがとうございました。


~ 土方歳三 最期の一日~

 

今回のドラマの根幹をなすテーマは榎本の蝦夷共和国構想でしたね。そしてそこに、土方の「死への意志」から「生への意志」への転換がからみ・・・。しかし、これは突然の死によって実現しないままに終わってしまいます。また、ある意味「主役」である榎本についても「夢の追求」から「挫折」へ、そして再度の「夢の追求」への転換。これがストーリーの中心を成していきますが、これも土方の死で実現しないままに終わりました。

ストーリーの中心が榎本構想であったというところが、良い意味で裏切られ、土方の死が夢の実現を見果てぬものにしたという点、それだけ土方の存在が大きかったという事で期待通りの展開でした。更に、これらの転換をもたらしたのが、前半何だかパッとしなかった大鳥圭介で、意外に「堅実にして強固で純粋な信念」を持っているというところ(特に作戦テーブルの下から出てきた後がいいですね。)がスパイスとしてかなり効いたなと感じました。このあたりは多分に創作も含まれるかもしれませんが。榎本の構想を大鳥と土方が実現させようとし、土方の死で未完にして終わる。歴史に「もしも」は禁句かもしれませんが、土方が死ななかったらという仮定は結構楽しいかもしれません。無論、官軍の大軍勢にかなう訳もない状況ではありましたけれど・・・。

 

 このドラマでは唐突に「ぬえ」が出てきます。もちろんこれが官軍を揶揄していることは明白ですが、その後の明治新政府のうちわもめを見るにつけ「言い得て妙」なのかもしれません。食客時代の「ぬえ談義」では、土方が単に強い生物(実在はしませんが)としてその名をあげ、それが図らずも官軍を予言してしまった点、その後山南が、「それより怖いのは人間」として、官軍や明治新政府内部の「闇」の部分を予言した点、等々あのシーンは明治2年やそれ以降の社会での状況を一気に問題提起しているように感じました。わざわざ撮ってまでして挿入したくらいですから、それだけ三谷氏の重要なメッセージが語られているということなのでしょう。またあのシーンでは近藤が出てこない(ギャラの問題?スケジュールの問題?)ですが、「後取りはあれでいいのだ」の一言で片付けられて、ギャフン(死語)。

 

 土方の死に方に関しては、「疾走する馬上で敵弾を受けて、官軍に突進しながら、すでに死んでいた」というかっこいい?定説を私は信じ込んでいたので、今回の死に方にはちょっぴりがっかり。それでも落馬しながらも敵兵を切り倒し、名を名乗り、かっちゃんにあやまる。近藤の最期の言葉が「とし」だったことを考えると、2人の絆の強さが象徴されています。(撃たれた傷口をおさえ、それから手のひらに着いた血を見たシーンで、思わず「何じゃこれ!」と心の中で叫んでしまった私って古い人間?)

 あまり難しいことは考えず、単純に新選組のファンの一人として観た感想は、やっぱり「面白かった」。また、近藤勇の死で終わってしまった大河ドラマ「新選組!」の後にこの一話は絶対必要であったということを感じます。最後に市村鉄之助が草原を走っていくバックショットが思わぬ爽快感を与えてくれましたが、それはまた「語り継ぐ人間」の一人である市村の思い、それを託した土方の思い、土方が最後まで慕っていたかっちゃんの思い、そしてその他新選組を生きた人々の思いを肯定し暖かく見つめる三谷流の結論であったように思えてなりません。

 

「2年間も楽しませてくれてありがとう」という感謝の気持ちを表して私の感想を終わります。