2005年のひとりごと

ビオラの花が咲き始めました(1.6)

一昨日のお昼過ぎ、なんとなくつけたキッズチャンネルでやっていたダイジェスト版(?)「ロミオの青い空」。

1995年にフジテレビの世界名作劇場枠で放送された作品のようですが、今回初めて観ました。

小6のウチの長男と同じくらいと思われる少年たちが、とても立派に会話している独特の雰囲気に包まれたイタリアのミラノ。

その世界に一旦慣れてしまうと、一気に物語の中に引き込まれ、煙突掃除の重労働に子供たちが苦しむことのない未来をと夢見る主人公たちのラストシーンに素直に共鳴していました。

で、妙に印象的だったのが元貴族(?)の金髪少年アルフレド。

両親を謀殺され、その仇を討つためだけに必死で生きる彼には金髪の妹さんがいたりして、なんだかシャアを彷佛とさせるキャラ。

でも、最後には両親を殺した叔父(?)の罪状が白日の下に曝され、安堵の中で早すぎる死を迎えるアルフレドが、主人公のロミオに「君と出会えたから僕は復讐しないですんだ」と言うところは、富野御大がシャアによってガンダム世界に作ってしまった(福田監督以前の)誰もが超えられない限界を軽~く突き抜けてました。

それなのに、懐かしアニメ番組なんかでは全くといっていいほど取り上げられないのはナゼ?

やっぱり忠臣蔵好きの日本人には、「復讐しないですんだ」は刺さらないのかなぁ~。(泣)

今度レンタルしてみよう~。(あるかなぁ・・・★)

 

ところで、今回のインド洋大津波への救援について、パウエル米国務長官はバンコクでの記者会見で

 

"The aftermath of the tsunami is a tragedy for the entire world,"

「津波がもたらしたものは、全世界にとっての悲劇であり」

 

"The United States will certainly not turn away from those in desperate need. "

「合衆国は、絶望の淵で救いを求める人たちに背を向けることは決してしない。」

 

"We hope that through these efforts people will see that the United States is committed to helping those who are in poverty, to those who are not able to educate their children, to those who are looking for jobs and need a country that is based on law and order," 

「こうした我々の多くの取り組みを通じて、合衆国は貧困に苦しむ者、子供たちを教育する機会を持たない者、そして仕事を求めている者や法と秩序に基づいた国を望む者たちを助けることに専心しているということを、人々に知ってほしい。」

 

"We believe it is in the best interest of those countries and it's in our best interest and it dries up those pools of dissatisfaction which might give rise to terrorist activity," 

「(援助は)当事国それぞれにとって最大関心事であるとともに、我々にとっても最大関心事であり、人々の中に鬱積する欠乏感がテロ活動を誘発することを防ぐものと信じる。」

 

"Under such circumstances we think it's less likely that the terrorists will find fertile ground. That supports not only our national security interests, but the national security interests of the countries involved." 

「そのような状況であればテロリストの温床となることはないだろう。それにより我が国の安全保障が促進されるのみならず、関係各国の安全保障上の利益にも寄与するものである。」

 

と、述べたそうです。(ロイター通信:Tue Jan 4,12:53 PM ET 訳:nobuko)

 

こうしたアメリカ政府の姿勢を、「対テロ戦へ深謀遠慮?」「ツナミ外交」などと表し、「支援の影に政治的な狙いがあるのではないか」と報道する欧米のマスコミと、それをそのまま引用する日本のマスコミ。

 

こうして見ると、プラント・デュランダル政権はアメリカで、ナチュラル世論を煽動するロゴス&大西洋連邦は欧米&日本マスメディアの多数派、それに引っ張られるオーブは日本、ってこと?

それにしても、相当な部分で現実世界とシンクロしちゃってるDESTINY! もしや福田監督&両澤さんは細木数子なんかよりもズバリ言っちゃってる!?(笑)


米国大統領就任演説についてのエトセトラ(1.29)

ある著名カトリック女性作家が新聞に連載しているエッセイで、「ブッシュ大統領は就任演説の中で『自由』という言葉を27回使った」「人は言うべき内容に自信がなくなると同じ言葉を繰り返すことによって、何とか客観的力を与えようとする」と書いていました。へ~!この人、そんなこと自分で数えたんだ☆と思ったワタシは、さっそくロイターのサイトに掲載されていた演説全文を読んでみました。

作家女史が数えた「『自由』という言葉」とは、おそらく"freedom"のことだと思われますが、確かに27回使われていました。ただし、"liberty"も含めるならそれに加えること15回でした。

さて、女史は「ブッシュ大統領は多くの若者たちの死傷者を出したイラクの戦争には一言も触れなかった」とも書いていましたが、いきなり次の箇所を発見!

 

"Freedom, by its nature, must be chosen and defended by citizens and sustained by the rule of law and the protection of minorities. And when the soul of a nation finally speaks, the institutions that arise may reflect customs and traditions very different from our own. America will not impose our own style of government on the unwilling. Our goal, instead, is to help others find their own voice, attain their own freedom and make their own way. "

 

(自由な社会とは本質的に、市民により選択され、そして守られるべきものであり、法による支配と少数派の擁護とにより維持されるべきものである。そして、国家の魂の結論として語られる憲法は、我々のものとは大きく異なる慣習と伝統を映したものとなろう。アメリカは、望まないものに我々の政治体制を押し付けるようなことはしない。それどころか我々が目指しているのは、彼等が自らの声を見出し、自らの自由を獲得し、自らの道を創ることを支援することなのである。)

 

「イラク」と具体的な表現はしていないものの、現下の国際情勢の中における米国大統領の言葉であれば、イラクを念頭に置かずに解釈する方が不自然でしょう。そして、「多くの若者たち」の犠牲については、

 

"In the quiet work of intelligence and diplomacy, the idealistic work of helping raise up free governments, the dangerous and necessary work of fighting our enemies, some have shown their devotion to our country in deaths that honored their whole lives. And we will always honor their names and their sacrifice."

 

(情報収集・分析や外交といった地道な活動、自由な政府の樹立を支援するという理想を形づくる活動、敵と戦うという危険かつ欠くべからざる活動、それぞれの場において我が国への献身を栄誉ある死をもって示した人々がいる。我々は、常に彼等の名と自己犠牲の精神を讃えるであろう。)

 

などというように、自由を求め、拡大することにともなう犠牲について、演説の随所で触れていました。

 

作家女史は、極めて明示的かつ直接的な表現で具体的な事象を取り上げたのでなければ、表現したことにはならないとのお考えなのかもしれません。

しかし大統領の就任演説、とくに混迷する世界を安定へと導くことが負託される大国の指導者が自身の目指す世界像を示す場においては、その考え方は当たらないと思うんですよね。

たとえば、今回の演説では女史の指摘の通り「自由」、正確には"liberty"と"freedom"という観念あるいは概念を表す言葉が繰り返し登場します。このことが、女史にとっては何か揶揄すべき対象と映ったようですが、ワタシにとってはごく自然に受けとめられたという以上に、まるで昔から語り伝えられる歌を読んでいるような、心動かされるものでした。そして、これまで辞書を引いても今ひとつよくわからなかった"liberty"と"freedom"のふたつの「自由」のそれぞれの意味、すなわち"liberty"とは「自由」という抽象概念のことであり、"liberty"がある「場」を表現するものが"freedom"なのだということが初めて腑に落ちました。

 

作家女史はきっと、「観念的な言葉が繰り返されるメッセージには実体が備わっていないものだ」とか「自身が抱える後ろ暗い部分を隠すために耳障りの良い言葉で糊塗している」ということをおっしゃりたいのだと思います。そういう見方をする人がいるだろうことはワタシも否定するつもりはありませんが、もしそのような主張をするのなら、評論の対象の構成を正しく踏まえたそのうえでして欲しい~。

 

ところで、これまでは比較的バランスのとれたリポートを届けるとの印象だったNHKのワシントン支局長も、今回の演説については「宗教色を極めて色濃く身にまとった大統領」、「こうした外交分野での理想主義は、アメリカ流の価値観を他の国にも押し付けて摩擦を引き起こす危険な芽をはらんでいる」などとコメントしていました。

ブッシュ大統領はこれまでも、とかくキリスト教的色彩が濃いと評されてきましたが、今回の演説では

 

"That edifice of character is built in families, supported by communities with standards, and sustained in our national life by the truths of Sinai, the Sermon on the Mount, the words of the Koran, and the varied faiths of our people."

 

(そのような性格を持つ社会は、家族の中で作られ、コミュニティによって支えられ、国民生活の中ではシナイ山での十戒、山上の垂訓、コーランの聖句、そして人々の様々な信念によって持続される。)

 

と述べています。この支局長さんも、この部分を踏まえたその上で「言葉でそう言ってはいるものの・・・」とご自身の解釈と評価をしてくれていれば良いのに、まるでブッシュ大統領が開き直って公然とアメリカ教を押し付け始めたみたいな言い方しちゃうと、「もしかしてこの人、実は自分で演説の全文を把握していないんじゃないの?」って勘ぐってしまいます。それとも、エビ様失脚で宗旨替え? (笑)

 

「そう言えば、ファーストガンダムが映画化された時にね、全編を三部作に分けてまとめて順次公開する予定ってことはファンの間では常識だったんだけど、第二部が完成したとき、おすぎかピーコかのどっちかが『アニメ作ってるところって、ひとつ作ってうまくいくとすぐ続編作っちゃう節操のなさがイヤよね』っぽいことを評論しちゃったんだよ。あれで、この人たちって観ないで喋ってんだな、ってバレちゃった。」

とはnobukoの夫の昔話です。


学校へ行こう!(2.17)

学校を取り巻く環境が危ない時代、なんですよね。

テレビでニュースが流れるたびに、チビたちが通う学校でも再検討される対策方法。

ワタシがPTAの理事会に参加していた頃も、やれ「校域パトロールの強化だ!」やれ「門をつくるべきだ!」やれ「学校は何をしている!!」と、声高に主張される方々がいたのを思い出します。

 

でも校域パトロールって、増やせばいいってもんじゃあないと思うんですよね。

毎年一時間ずつ当番が回ってくるんですが、ご丁寧に「不審な人がいたら避けるように」っていうお触れつき。

「パトロール中のお母さんたちに、何かあったら大変」っていう心配もわからなくはないんですが、その程度のパトロールを増やしたところで効力はどうなんでしょう。 増えるのは少数の律儀なお母さんたちの負担だけなんじゃあ、と思うワタシです。(笑)

で、そんな素朴な意見を言った途端、「な~に言ってるの! 子供たちのためよ!」って集中砲火★(笑)

門の方は、クラスの懇談会で先生が母親たちに意見を聞いていましたっけ。

他のお母さん方が門があったほうがいいとおっしゃる中、

「閉鎖的な雰囲気はあまり好ましくないと思います。」

と、また一人違う意見を言っているワタシ。

結局、昨年の夏に門が取り付けられ、構内に入る時にはクラスと名前が入った認証カードを身に付けることが通知されました。

でもその門、ちょっと低めでいつも施錠されていないのは、開放的にしたってこと?(苦笑)

認証カードの方も始めのうちはそこそこ徹底されていたんですが、今ではそもそもの言い出しっぺと思われる役員経験者のお母さまがたほど、「アラ、忘れちゃった~♪」って言ってます。はは~ん、さては自分は顔パスよ♪ って言いたいのか?(笑)

そういえばそういうお方に限って、先生方専用の駐車スペースに堂々と車乗り付けてるしな~★

 

その手の対策を講じるよりも、もっと人の出入りがある空間になればいいんじゃないかと思う今日この頃。

例えば、公民館なんかでやってるサークル活動を空き教室でやるようにして、地域の人たちがうろうろする空間になった方が人の目が増えていいんじゃないかな。

そのうえで、警察OBの方とかに常駐してもらうっていうほうが、どうせ税金使うなら効率がいいような気がしますし。

 

ところでまたぞろ気になったのが、CXのキャスター女史のコメント★

「私はアメリカの公立校にいたんですが、授業の始まりには教室は施錠されていたんですヨ。そうやって安全が確保されていたってことですネ。」って、言うじゃな~い。

でもワタシもおそらく女史と同時代に公立校(中学と高校に一年ずつ)にいましたが、「先生、トイレに行ってきます」って告げる生徒やら、「バザーです。買って下さい。」って言って、家で焼いてもらったクッキーやブラウニーを売りにくるよそのクラスの生徒たちが自由に出入りしてましたからっ! 残念!!

 

・・・でも、被害者ナシとは言え部外者による発砲事件はありました。切腹っ★

 

ちょっとここで、ワタシがいたNY郊外の公立中・高校のシステムのご紹介をすると、日本と違ってクラスメイトといえどみんな時間割が違うので、毎時限ごとにバラバラでした。

だから、クラスメイトっていう意識自体があんまりなかったんですが、一時限目の国語だけはクラスメイトが一緒の教室で授業を受けました。つまりそれがホームルーム・クラスで、このときに出欠を取ったり国歌斉唱をしたり。

で、バザーっていうのは、このホームルーム単位で自家製お菓子を持ち寄って、いろんな授業の教室に売りに行き、その売り上げは、ブロードウェイ(ただしオフ又はオフオフ・ブロードウェイ)観劇やらウエストポイントの士官学校の見学やらの校外学習費に当てました。もちろん、お菓子を持ってこられないお家の子も結構いたんですけど、そんな子たちは売る係を分担したりして、皆でお金を集めたっていう気持ちになれるんです。

 

話が横に逸れましたが、ちょっと前に大型スーパーのチビッコ広場で小さい女の子が仮出所中の男に殺害された事件があった時には、「スーパーに門をつくってお客を全員チェックしろ」とか「チビッコ広場に鍵をかけろ」なんて議論は起きなかったですよね。そんなことはスーパーという施設の性質上、土台無理な話だから。

ということは、学校に門とか鍵とかっていうのは一見具体的な対策に思えるけど、ヤッパリそれだけでは本質的な解決策にはならないってことなのでは・・・。ウ~ン★

 

ちなみに、ウチには門がない~♪(笑)


デフォルメってなんだろう(4.5)

ホリエモン騒動。ホリエモンさんの傍若無人さや陳腐なメディア論にはちっとも共感できないその一方で、「ホリエモンがとびきりの悪党で、標的にされたフジやニッポン放送が可哀想」なんて構図にも全く見えないワタシはひねくれ者なんでしょうか。

テレビの世界の人たちって、その物言いや表情をこちら側から見ていると、「世の中結局はお金だ~!・・・でも、そんなことおくびにも出さないようにしないとお下品でしょ」って感じに見えちゃうんですよね。

 

そしてそんなテレビ界の影響なのか、今や世の大人たちの大半もそう思ってる気がする★と、つい富野さんみたいに世相にイラつくワタシ(笑)の一服の清涼剤は、ケーブルテレビで観られるカルピス劇場(世界名作劇場)のアニメ。

子供たちも欠かさず観ていた「ラスカル」は今日最終回でした。

子供の頃一度観たことあるワタシですが、放映当時にはわからなかった微妙なニュアンスがわかるようになった為か(遅)、絵と台詞のひとつひとつがとても新鮮でした。

確かに「ラスカル」は昔のアメリカかもしれませんが、ワタシの知っている25年前のアメリカと同じです♪

それに引換え、この前最終回だった「レジェンズ」。このお話も同じくアメリカが舞台でしたが、描かれていたマンハッタンやその他のアメリカの風景は違和感大で不満たらたらでした(それで最初あまり観てなかった)。

 

さて、話は飛びますが、やってますね~愛知万博。

万博といえば大阪の時、普段は出かけるのをおっくうがるおじいちゃんが、老人会か何かで連れて行ってくれるからと勇んで出かけて行ったことを思い出します。

で、記録映像で必ず映し出される大阪万博のシンボル「太陽の塔」ってありますよね。

実はワタシ、見ちゃったんです! アメリカに住んでいた頃、家族で出かけたルーブルだか、メトロポリタンだか、はたまたメキシコの歴史博物館だったかで、あの像をとても小さくしたようなクリソツの発掘品が、ぽつんと片隅に展示されているのを!

当時40歳だったワタシの母なんて、それを目にした途端「岡本太郎はこれを真似したのね」って言いました。(笑)

天才と言われる岡本太郎がパクった??? それとも、あの小さな土偶(?)が発掘されるよりも前に、太古の芸術家にシンクロしちゃったの??? ウ~ン★

思い出すたびに証拠写真撮っておけば良かった~って、後悔しきりです。(笑)

 

ところで、像と言えば北鎌倉は円覚寺の黄梅庵の庭にひっそりと置かれている小さな木像。

あれって、まさか円空仏じゃないですよね。三百年以上も雨ざらしになってて朽ちてないわけないしなぁ・・・。


ご近所とのつき合いかた(4.20)

それは昨年の春の出来事。

その一年ほど前に長男が誘われた野球チームは、近所の小学生で作る人数ギリギリの出来立てチームでした。

普段の放課後は、ほとんどの友達がTVゲームや塾、習い事で忙しく、そのどれもやってない長男は遊ぶ相手がいなくて困っていたのですが、このチームに入ったおかげで土日だけでも友達と外で遊べると本当にうれしそうでした。

ただ、ちょっと気になったのは、親掛かりのチームだってこと。普段着で広場に集まってやるのとは違い、ユニフォームを揃え、グラウンドを借り・・・と、子供たち以上に親が一生懸命にならなくっちゃやっていけない感じなんです。

とはいえ最初のうちは、会長さんが寛大だったためか、時々週末におばあちゃんのお見舞いに行くために練習を休む我が家を認めてくれていたのに、少しばかりチームが勝ち始めたころから事情が変わっていきました。

 

きっかけは会長と監督の交代。

新会長と新監督は、途中から入ってきたメンバーの親御さんたちでしたが、「練習を休むヤツ、親が役を引き受けないウチは、辞めてもらう! 練習すれば勝てる!」と勢いづきました。

それまでだって、夏休みにはスポーツ少年団の世話係、クリスマスには鳥の唐揚げ&赤飯の握り飯(なんだこりゃ?)を人数分作って持っていったり、試合では審判への水補給係など、できる限り協力してきたつもりのワタシでしたが、これ以上エバリンボとその奥さんたちに関わるのはもうご免! 長男の教育上もよくないと思い、悩んだ末やめさせました。

あれこれ買わされた(笑)ユニフォームや装備一式は段ボール箱にしまって・・・・。

その後、ウチと同じように不快感を持ったご家庭があったのか、徐々にメンバーは抜けていき、「とうとう解散したらしいヨ」と長男が話してくれたのが年末。

長男は、おどされるような関係は長くは続かないし、そういう場から離れても、親しい友達との友情は続くことを知ったようです。

 

さて、話は変わりますが、成田の大型スーパー&ショッピングモールには、中国や韓国からのツアー旅行者とおぼしき人たちが大勢立ち寄るようになりました。

そして、どのツアーにも決まったようにいる大声のエバリンボおじさんやエバリンボ兄さん。(笑)

昨日も柄の悪いチンピラと見まがう若者客が我が物顔で買い物をしていましたが、不快には思ってもそういうのが結構平気なワタシは、そんな人たちのそばで荷物を袋に詰めていました。

そしたら、ワタシが袋詰めしてるカウンターに腰をかけたマナーの悪い若者が、人の買ったものを覗き込もうとしたんですよね。さすがに、えっ!? と思ったその途端、飛んできたんです! スーパーマン、じゃなかった警備の人が!

やっぱりその手の苦情が増えてるんだろうなぁ・・・とあたりをよく見れば、食料品売り場でも家電売り場でも、いつにもまして厳重になっていた警備。そして、売り場に並んだテレビには「反日デモ」の映像が映し出されていて・・・。


国家ぐるみで2ちゃんねる(4.22)

昨日の新聞によると、横浜市が友好都市・上海市に対して行った抗議と安全確認の申し入れに対しての回答に

 

「上海警察が取り締まりに踏み切らなかったことは事態の激化の防止につながりました」

 

とあったそうですね。なかなか正直じゃないですか、上海市。

個人に政治を自由に語らせたら何を言い出すか分からない、だからデモなどもってのほかというあの国で、あれほどの規模のデモが行われたということの意味を自ら語ってくれている上海市、さすが国際都市です。

 

特に政治的な主張を持たない普通の人だって、何をもって政治的な意見とされるか分からない日常のなか、すこしずつ「腹ふくるる」状態になろうというもの。ふくれたお腹が束になって爆発したらそれこそ大変。

一方、自国通貨の不当操作により膨らませつづけてきた昇竜バブルも、アメリカなどからの人民元の切り上げ要求で弾ける寸前。

やったもん勝ちではじめた日本海での油田開発も、いつもは及び腰の日本が意外とタフに粘ってきちゃった。

いろんな意味で、そろそろガス抜きしとかないと・・・というわけで、閉め切っていた「表現の自由」の窓のうち、国家としてもガツンと言ってやりたい日本の「過去」に向いているところだけを開いてやった、ってことなんでしょうね。

その結果、トリックスターの親分がおっしゃるように、

 

「普段Jリーグなど見もしない人がワールドカップだけは必死に日本代表を応援する」

 

がごとく、いつもは日本産の生活消費財を当たり前に利用している、利用できる層の人たちが、「開いた窓」へとここぞとばかりに殺到!

 

「普段なら徒党を組んで歩くだけでチェックされちゃうはずのこの国で、あんな立派なプラカードまで用意されてるんだから、やっぱりこれは御墨付き♪ え!? 石を投げてる人いるけど、おまわりさん、あれもOKなの? よおし、友達にも連絡して何か投げるもの持ってこさせよう。」

 

・・・てな感じで盛り上がったんでしょう。

みんなが殺到しているその最中に、もし自分達が開いた小窓をいきなり閉めちゃったらどうなるかといえば、それは当然

 

「あんたたちが開くよ、っていうから急いで瓶に砂詰めて来たのに、何で閉めるの!?  あんたたちはいつもそうだ! こうなったら、せっかく持ってきたこの瓶で、あんたたちが閉め切ってる全部の窓を割っちゃうよ!」

 

てなことになりかねないのは火を見るより明らか。

 

というわけで、上海市からの回答は、

 

「上海警察が取り締まりに踏み切らなかったことは天安門事件の再発防止につながりました」

 

と読むのが正解?


ロゴスの行方 僕達の行方(4.28)

ワタシには、相変わらず「戦争は悪!!」を唱えてるばかりに見える大方のマスコミ論調も、竹田Pには物足りないようですね。(ガンダムエース6月号p.215より)

でも、本当に戦争状態さえ否定していれば大丈夫なんですかね。

竹田Pご指摘の「科学者が密室で行っている動物実験」に留まらず、望まれない子の堕胎、野生動物の駆除、飽食で捨てられる命、そのうえ共産国家や独裁国家などでまかり通る階級敵や他民族の虐殺などは、どれも人間が自分の都合ばかり主張した時に起こっていることですが、戦争状態ではありません。

でも他の存在を軽んじているという点では同じですよね。

 

さて、戦争の場を描き続けるDESTINYは後半戦に突入しました。

「戦争を描くことについては?」との問いに対して、

 

「やはり一番大きいのは9・11のテロ事件です。アフガニスタンに空爆したものの(テロの指導者と目される)ビンラディン氏はみつからず、イラクに戦争を仕掛けるという世界情勢に対して、小泉首相はイラクへの派兵を簡単に成立させてしまった。自分が報道にいたら反対の大キャンペーンを張るであろう重大事が容易く進行してしまう。この『するするっと(深く考えたり議論することなしに)進んでいく』ことは非常に問題なんです。」

 

と応えてらっしゃいます。なら、フセインが仕掛けたクルド人虐殺に対して、あるいはロシアの熾烈なチェチェン抑圧とそれに対するチェチェン側からのテロに対して、深く考えたり議論することをしないのはなぜ? 

堂々と行われている戦争、誰の目にも明らかな戦争に対してその非を責めることこそ、深く考えずに「するするっと」出来てしまう正義なんじゃあ・・・。

さらにいえば、少なくとも自由選挙の結果で政権が交代する国においては、戦争を含む大抵の政策というのは様々な議論の積み重ねの結果として発動されるもの。国連でのイラクを巡る議論だって9・11が起こる前から繰り返されてきたのであり、その経緯に関心を示さず報道してこなかったのはほかならぬマスコミの方々でしょう。

そんな報道畑に背を向けて、アニメを通じて戦争を語ろうとする竹田P。そこまでおっしゃるのなら、何かもっと突っ込んだスタンスを視聴者に提示して下さるの? と、俄然興味が湧いてきました。

 

それはそうと、戦場を慰問して回ったミーア。どこに行っても大歓迎されたようですね。

アイドルの力は凄い! プロデュースする力も凄い!

で、今時の戦争でもそんな芸能人慰問っていうのはあるんでしょうか。

アメリカでは、どちらかというと野球とかプロレスの選手たちが慰問に赴くケースが多かったみたいですね。

一方でセレブ芸能人たちはというと、メディアと共に盛んに反戦メッセージを送り続けた模様。

民主主義の世の中にあって、自分達だけが正解を知っている、だからそれを大衆にわかりやすく教えてやるのだ!というスタンスで、一方的に情報を流し続ける人たち、言葉と映像を司る彼等は、まさに現代の神にも等しい力を持つ・・・。

独善的で統制的な存在を「ロゴス」とネーミングするところなんか、相変わらずうまいですね!サンライズさん♪

 

ところで、ワタシが富野御大や福田監督が描くガンダム世界に興味があるのは、戦争を描いているからじゃないんですよね。

ガンダムが飛んでいく宇宙の、その広大な風景の中に、時を感じる瞬間があるから。

普段忘れがちな己の生命が、宇宙の中でどんな存在であるのか、それを観ているものそれぞれに思い起こさせる力を持っている気がするんです。

そしてそれが、それぞれの心の進化にもやがて作用していく、というような穏やかで壮大なイメージ。

これってまるで哲学みたいですが、宇宙戦争の場が舞台だからよりわかりやすいってことなのかもしれません。

でも、舞台それ自体に意味があるわけではなく、そこでしか描けないドラマとテーマがあるはず。

そんな期待を持って見ているワタシにとって、ガンダム一般がその時々の世話物っぽくなってきちゃったようにみえるのは、もしかしたら、というよりたぶん、作り手の皆さんはご自分たちが創られている作品世界が、実はそんな力を持つものであることに案外気付かないでいらっしゃるからかも・・・。

 

共通の拠り所のない無限の時空間のなかで、日常よりも濃密にかかわり合う人と人。

対立と相克の中から新たなものが生まれるかもしれない、そんなアウフヘーベンへの期待。

ガンダムを論ずる多くの人たちが抱いている、そんなイメージ世界を新たに構築するためには、まずは作り手の世界にそんな状況を具現化するのが手っ取り早いのではないでしょうか。

そう、御大と福田チームとの「水と油」(?)コラボこそが、ガンダムの新たな地平を拓く~!!

 

・・・かもョっ!?(笑)


ともだち(5.18)

「ともだちはたくさんはいらない。ひとりでいい。信頼できるともだちがひとりいればいいよ。」

今日の『ファイト』を観ていたら、ふいに自分の高校時代のともだちを思い出しました。

 

武蔵野の高校の寮で暮らしていた彼女は馬が大好きで、いつも乗馬用ヘルメットとブーツを持ち歩いていました。高校では吹奏楽部に入っていたのに、そちらに出るよりも校外の乗馬クラブに出かける方が多かった彼女。高校から遥か遠くにある家へと帰るワタシにつきあって、よく最寄り駅まで一緒に歩いてくれました。

そんな時、その辺をねぐらにしている半ノラたちが彼女のそばに寄ってきて甘えると、大の猫好きでもあった彼女はちょっと汚い猫たちをかまわず抱きあげては頬づりしていました。そんなわけで彼女の腕や足は、いつでもノミに噛まれた跡だらけでした。

 

そのともだちとは不思議な縁で繋がっていたのでしょうか。

彼女のご家族が、ワタシの家の近くに引っ越してきました。

夏休みに寮から帰宅している彼女を訪ねて、団地の二階にあるお家におじゃました時、少し開いた窓から大きな猫が入ってきたのでよく見ると、なにやらできたばかりの傷が。

「前の家から連れてきたんだけど、昨日の夜、ここら辺のボスになったみたい。」と、笑って紹介されました。

高校三年生になり、進路を決める時期を向かえましたが、なによりも馬と一緒にいたいと話す彼女。

仕事の都合でフランスで暮らしているお母さんのもとへ行って、馬の学校に入ろうかな・・・とポツンと言った後、涙を流し続ける彼女。

いま日本を離れても将来のためにならないのでは、と反対してしまったワタシ。

 

結局、彼女はフランスへは行かず、ワタシが進んだ大学とは別の大学へ進み、そしてそれぞれにボーイフレンドができたためか連絡も途切れがちになりました。

 

 

月日は流れ、ワタシに長男が生まれた時、大学時代に一度会った時に紹介された男性とは別の、フランス人のボーイフレンドと一緒に我が家を訪ねてくれました。久しぶりにあった彼女は、結婚する時のためにとご両親が用意してくれていた資金で自分の子馬を買ったことや、あと二、三年したらその馬に乗って長野から九州まで旅をする計画を立てていることなど、楽しそうに話してくれました。フランス人の彼は反対のようでしたが。

数年後、実家に戻った時に父親が読み終えた週刊誌をパラパラとめくっていたら、愛馬と一緒に長旅を終えた彼女の姿がモノクログラビアで紹介されていました。

あれから10年。ほとんど音信不通になっていた彼女ですが、アルツハイマーを患っている義母のことを年賀状に書いた時には、グループホームに勤めているから見にこない? と手紙をくれたっけ・・・。

 

我が家にはこれまで、今は亡き犬のタップのもとに迷い込み、そのまま居着いてしまった猫が二匹いました。最初のは真っ黒な子猫で、二匹目は白に黒斑。あまり猫が得意でなかったワタシが、そんな猫たちと出会えたのはきっと彼女のお陰。

『ファイト』のオープニングで、動物たちに囲まれる優の繊細なやさしい笑顔を観ると、彼女のことが思い出されます。


腑に落ちない伝え方(6.11)

どこかの荒れた高校が再生する様を描いて、「やり過ぎちゃってスミマセン」って謝ってたプロジェクトX。

先日は、太平洋の海底に光ケーブルを敷設して日米を繋いだ、KDD丸のことがアンコール放送されていました。

あらすじを公式ページから引くと、

 

国際電話、インターネット、双方向画像の高度医療。「海底ケーブル」は地球20周分にあたる総延長80万キロ、情報化社会を支える血脈である。

1989年に開通した「TPC-3(第3次太平洋横断ケーブル)」は当時、世界最長の海底ケーブル。生まれたての技術「光通信」を駆使して、日本とアメリカ双方から敷設を開始。太平洋上でのドッキングに挑む巨大プロジェクトだった。

ケーブルを引く敷設船「KDD丸」の乗組員は80人。リーダーはKDD(国際電信電話)の細谷辰雄だった。入社後、病に倒れたが不屈の精神で船に舞い戻ってきた。

 

しかし、細谷たちの前に黒潮が立ちはだかった。海底に数百メートルの誤差で敷設するためには黒潮の早さを計算し、ち密な操船、瞬時にケーブルを繰り出すタイミングが要求される。更に、海底には水深8千メートルの日本海溝が口をあける。ケーブルを襲う水圧は1トン。ガラス製の繊細な光ファイバーは水圧でズタズタになった。そして、サメがケーブルを襲うという驚愕の情報がプロジェクトを震え上がらせた。 

 

細谷たちはのべ134日の航海の末、ついに至難の敷設作業を達成。しかしメンバーたちを待っていたのは、アメリカ側担当の敷設船「ロングラインズ号」からの緊急連絡だった。

 

「ケーブル損傷! 応援を頼む!」KDD丸は再び太平洋に舳先(へさき)を向けた。

 

情報の大動脈を築くため、洋上で自らの技術を尽くした男たちの知られざるドラマを描く。

(http://www.nhk.or.jp/projectx/library/library.html)

 

というもの。

 

実はnobukoの夫は、この海底ケーブルにまつわる研究者と師弟関係というかお友達というか、よく分かんないけど知り合いなのだそうです。

その研究者は、光増幅という技術を発明した方。光ケーブルは、光に情報をのせてケーブルの中を通すというものだそうですが、光が長い距離を進めば進むほど、光は減衰して情報は劣化してしまうため、一定の距離ごとに増幅器を置かなければならないのだそうです。この増幅器を研究開発していた人たちは皆、減衰した光信号を電気的に増幅し、それを再び光にのせて送り出す、という仕組みを考えていたなか、その方は全く違うアプローチをとったそうなのです。

電気増幅装置は、それ自体どうしても大きなものになってしまうし、その仕組みから短い間隔で設置しなければならないので、とても効率が悪いシステム。もっとシンプルな仕組みはないものか・・・、と研究してできたのが光を光で増幅する光増幅装置。これだと、電気増幅の仕組みに比べて増幅率が格段に良いので、装置自体コンパクトになるだけでなく、設置間隔も大きくとれるのだそうです。この技術はまさに画期的で、現在世界中に情報を伝達している海底ケーブルの増幅器は全てこの方式を使っているとのこと。

そんな話をnobukoの夫から聞いていたので、ワタシと長男は滅多に見ないプロジェクトXにチャンネルをあわせ、その方のエピソードが紹介されるのを今か今かと待ち構えていました。ところが、増幅装置については、なにやら画期的な技術が日本側から持ち込まれ、

 

 

「その性能に、アメリカは唸った」

 

 

てな感じの田口トモロヲの一声でおしまい。その後は、上のあらすじにあるように敷設作業の困難さとそれに立ち向かう技術者の奮闘ぶりが描かれるのみで、最後はスタジオに呼ばれた偉い技術者の一人が、よく餃子を作って乗組員に振舞ってた、っていうほのぼのエピソードで締(し)め。

ちょっと肩すかしを食らった感はあるものの、まあそれなりに面白く見ることができたお話でした。

 

で、数日後。その日も、例の研究者の方と仕事をして帰ってきたnobukoの夫が開口一番、

 

 

「あの餃子作ってた、っていう人。確かに餃子作るの巧かったらしいけど、魚捌く方がもっと巧かったんだって。」

「へ?」

「ほら、この前のプロジェクトXのKDD丸のこと。海の様子次第では全然仕事にならないときが結構あったんだって。そんなときはみんなで釣りして、釣った魚をあの人が捌いたのが美味しかったんだって。烏賊(いか)なんか、透き通ってたってさ。」

「ふ~ん。そっちのエピソードのほうが面白いと思うのに、なんで餃子だけになっちゃったのかしらね。皆でのんびり釣り三昧、っていうんじゃ緊迫感なくなっちゃうからかなぁ。」

「そうかもね。それからね、光増幅装置って、あの敷設作業の時にはまだ導入されてなかったらしいよ。ほんの少し後のタイミングだったらしい。」

「だから、ほとんど触れられてなかったのかもね。でも、だったら全然触れなくってもいいのに・・・興味ばっかり刺激されて、フラストレーション溜まっちゃうじゃないねぇ。」

「まあね。でもNHKとしては、日本発の画期的技術が現代の情報社会を支えてる、ってイメージを色付けしたかったんじゃない?」

「確かに、時間的な流れやこまごまとしたエピソードを全部正確に描いてたら、数十分の番組にまとめらんないものね。」

「取材を受けた人たち、一様に『自分が取材に答えたこととは違った感じになってる』って言ってるらしいよ。ま、テレビなんてそんなもんだよ。」

「この前の高校の話のときは、取材を受けた元ワルの人たちのほうも『ちょっと大げさに表現してしまった』って言ってるみたいだけど。(笑)」

 

テレビにしろラジオにしろ、雑誌にしろ新聞にしろ、ニュースにしろドキュメンタリーにしろ、限られた時間やスペースのなかで一つのイメージを、作り手が抱いているイメージを伝えるために脚色されてて当然★と、改めて思う我が家でした。

 

さて、昨日のテレビで青学高等部の入試問題についてのニュースが報じられていました。

内容は、沖縄・ひめゆり学徒隊について不適切な文章が英語の問題として扱われていた、というもの。

Infoseekニュースから、毎日新聞配信の記事を引用すると、

 

同校によると、英文は生徒が書いたものではなく、同校の教諭が試験用に作成した。沖縄県で生徒は、防空壕(ごう)に入った後、ひめゆり学徒隊の女性から体験談を聞いて「退屈で飽きた。彼女が話せば話すほど、私は防空壕で受けた強い印象を失った」と感じ、「(女性が)いろんな場所で証言をしてきて、話し上手になっていた」との感想を書いたという内容になっていた。

 そのうえで「なぜ筆者は聞いた話が気に入らなかったのか」という問題を出し、「彼女の話し方が気に入らなかった」という選択肢を正解として選ばせていた。

 

沖縄県の稲嶺恵一知事は10日の定例記者会見でこの問題に触れ「がく然とした。ひんやりとしたものを感じるしショックだ。ひめゆり(学徒隊)のみなさんは多くの人に体験を話すことで平和な世界にする努力をされてきた方々。そのご苦労と気持ちを理解してほしい」と述べた。

(http://news.www.infoseek.co.jp/society/story.html?q=10mainichiF0610e040&cat=2)

 

ということです。でもこれって、何か変じゃないでしょうか。

 

戦争についての考え方や意識は「反戦」でなければならない、っていうあるべき論の匂いが漂ってくるニュースではありますが、ワタシが違和感を覚えるのはそこではないんです。

例えば、体験談を聞いた生徒が「ったるい、うぜぇ」って毒づいた、そしてそれを肯定した内容というのなら、それが心の中であろうとなかろうと問題視すべきことであることは、いかに天の邪鬼なワタシでも同意します。

でもこの件では、生徒は「防空壕で受けた強い印象を」「ひめゆり学徒隊の女性から体験談を聞」くことで「失った」のであり、それは「(女性が)いろんな場所で証言をしてきて、話し上手になっていた」ためであると感じた、そういうストーリーです。つまり、伝わりやすさを求めての脚色が事実の持つ重みを削いでしまうという、ある意味でコミュニケーションの本質を突いた文章だと思うんです。

 

この問題が本当の生徒の感想をベースにしているのか、作成した教員の創作かは定かではありません。また、「いろんな場所で証言をしてきて、話し上手になっていた」女性が実在するのか否かも分かりません。もし、そういう女性がいないのに、このようなストーリーが表現されたのだとしたなら、文句なく不適切だと思います。でも、この文章が誰かの素直な感想に基づいているのだとしたら・・・。

 

ニュースのタイトルに掲げられた「不適切」とは、いったい何を指しているのでしょうか。

自らの持つ恣意性と客観性の矛盾をさらけ出しながらも、何かを断罪せずにいられないジャーナリズムが作り出した、「不適切」な報道の典型を見た思いです。


腑に落ちない問題文(6.19)

「ひめゆり」の件で話題となった英語の入試問題原文を、某サイトで発見しました。

 

http://www.inter-edu.com/kaito2005/high/aoyama/index.html

 

この問題文、やっぱりちょっと問題ありかも。(笑)

といってもその内容ではなく、英語の試験問題として、です。

一読して伝わってくるのは、いかにも日本語から訳した文章っぽい、っていうか、日本的思考で書かれた英文ってこと。

おまけに、それを前提とした設問まで用意されてるし・・・。

例えば、質問9に「去年の夏に行われたサッカーの会場での出来事についての著者の意見は次のうちのどれか」というものがあります。

答えはCの「歴史は両面から捉えなくっちゃ」なのだと思うのですが、この意見は本文のどこにも明示されていません。

四択のうち明らかに違うものを消去して残った一つと、本文の行間を読み取っての解釈がまあ一致しているので、選ぶとしたらこれかな、って答え方になるのかなぁ。

もっともワタシは、本文にある「ブーイングした中国人の親たちは、一体どんなふうに歴史を教えてきたんだろう」っていう箇所を根拠に、Aの「中国人は歴史を改ざんしようとしている」を選びそうになりましたが・・・。(笑)

 

そういえば、例の「ひとりごと」を書いた翌日、6/12の新聞一面に

 

「私立中学入試算数  問題文に問題あり」

 

っていう見出しの記事が載ってましたっけ。

 

東京理科大教授の調査で、

 

○自然界には存在しない「一晩で半減する生物」を仮設して質問を作ったり、

○100gの水や湯に食塩は28.2gしか溶けないのに、「濃度30%の食塩水と濃度40%の食塩水」という設定で質問を作ったり

 

などなどの、科学的にあり得ない状況設定に基づいた問題が多く出されていることがわかった、というものです。

 

ほかにも、

 

「5人で釣りに行き、一番多く釣った人は22匹で、一番少なかった人は10匹だった。5人が釣った魚の数の平均はどれか」

 

という質問に、

 

A26.2匹 B22.0匹 C20.8匹 D16.6匹 E12.4匹

 

という五択が用意されている、というものもありました。

調査した教授は、この問題の問題点として「正解は13から19匹の間となり、これだけの条件では小数点以下まで特定できない」と指摘している、と記事は紹介しています。

正解の範囲にかかっているのはDだけなんだから別にいいじゃん、っと仰る向きもあるとは思いますが、ワタシはこの理科大教授に賛成です。そもそも、試験問題で、それも論理性が求められる数学の質問で答えを一つ選ばせるのなら、誰がどう見てもそれ以外ない、っていう答えを用意するか、大体のところを選んでね、っていう質問文にするべきでしょう。例えば、「平均となりうるのはどれか」というように。

で、この問題をもう一度解いてみると、もし5人のうち4人が22匹釣って1人だけ10匹だったら平均は19.6匹。逆に、5人のうちチャンピオンは1人だけで残りの4人がみんな10匹だったら平均は12.4匹・・・あれ? じゃあEも正解じゃん!? 

となると、この問題の問題を指摘してるこの記事も問題なんじゃあ・・・。(笑)

根本から考え直すと、魚の数の平均を考えるのなら、素朴に考えて少数まで求める必要はないはずです。切り身にするわけじゃないんですから。

もちろん、日本のマグロ水揚げ量の漁船一隻当たりの平均とか、日本の一世帯当たりの人数の平均は、という命題であれば、少数まで求める意味はあります。それは、大抵の場合この種の数字は経時的変化を捉えるために用いられるから、変化が把握できるレベルまで表示する必要があるからです。つまり、今回の問題の問題点は、小数点以下まで特定できないのではなく、整数の概数で求めれば十分のところを、不要なレベルまで要求していることと考えられます。

ところで、もし小数点以下まで求めなくてはならないというのであれば、正解は12.4から19.6匹の間ということになり、理科大教授の上記指摘「正解は13から19匹の間」というのは間違いになります。

これらのことを考えると、「正解は13から19匹の間となり」というのは整数での答えを前提としていると思われます。しかし、そうなると今度は、それに続く「これだけの条件では小数点以下まで特定できない」という箇所がおかしくなってきます。

この辺りに、記事を編集したメディアの不手際の気配が・・・。

 

ま、記事が紹介している

 

「たとえ算数であっても、科学的に正しい設定と正確な日本語を使うべきで、教育的配慮を欠いてはならない。問題の文章にはもう少し気を配ってほしい」

 

との教授のコメント(これも、記者に要約されちゃってるんでしょうけど)は、算数だけじゃなくどの教科にもあてはまりますよね。

 

絶対の真理はあると思いながらも、それを全ての人が共有することはとても難しいことだから、明らかな間違いを取り除いていって、確からしいものがとりあえずの答え・・・っていう考え方は、実は現実社会の中での判断のあり方としてはもっとも妥当なものだと思っているワタシ。

でも、そんな考え方で生きていくためにはなおさら、課題設定に際しては論理的な明解さが必要なはず。でなきゃ、課題自体が共有されず、その理解の仕方がまちまちになることで一層の混乱が生まれる、ってことになるのがオチですから。


レーガンとケネディ どっちがケルト!?(6.25)

「アメリカの核心にある『愛蘭土』ー米映画で再確認した建国の精神ー」とのタイトルで、6/22付けの産經新聞「正論」コラムに寄稿されていた松本健一氏。

氏いわく「(『ミリオンダラー・ベイビー』は)アメリカにおけるナショナル・アイデンティティーとしての愛蘭土(アイルランド)を物語っているのだ。」「イーストウッドはこの映画で、アメリカのナショナル・アイデンティティーは、『(ハンチントンが『文明の衝突』で述べたような)外に敵を作る』ことではなく、いわば『内に誇りを再確認する』ことだ、と語っている。(日本の)映画評論家たちがそのことに気付かないのは、それはアメリカ人にとって自明のことであり、それゆえあえて言葉では語っていないからである。」

「中国人も韓国人もロシア人もヒスパニック(スペイン系)も、そして日本人も、みなアメリカを自由と民主主義の『理想の国』と考え、そこに移民してゆく。しかしアイルランド人は、アメリカを『理想の国』に作ってゆこうとした(そこに、アイルランド移民の子のケネディ大統領がいつまでもアメリカの星であるゆえんがある)。」とも述べてらっしゃいました。

 

松本氏が映像から読み取ったというアメリカのアイデンティティ。それがケルト的なものにある、という指摘にはワタシもagree♪(「ひとりごと」2003.5.27参照)

それから、アメリカという社会は初めからあるのではなく創られていくもの、という指摘も「アメリカにあるのは『完全な民主主義』なんかじゃなくて、『人としてかくありたい』というWISH(意欲)である(2004.5.7 記)」とも書いたことのあるワタシには納得のいく話でした。

・・・でも、民主党のケネディがその象徴、という一見わかりやすいご説は時代遅れな気がしました☆

 

ケネディは、その演説やマリリンモンローとの浮き名、日本初のテレビ海外生中継中の暗殺などで有名な方ですが、キューバ危機に際して全世界を第3次世界大戦勃発から救った英雄とも言われてきました。

ところが最近までワタシもよく知らなかったんですが、そもそもケネディはキューバ危機をつくりだした張本人である、という説が浮上しているようなんです。

当時、大統領になったばかりのケネディは、議会が秘密裏に進めてきた反カストロ分子支援策を継承したものの、彼等(反カストロ分子)がビッグズ湾からキューバに侵攻した際、彼等からの航空支援の要請を土壇場で拒み、結果、祖国の解放を志す何千人というキューバ人がカストロに虐殺され投獄されたそうです。

もしかして松本氏ご指摘の「外に敵を作らない」アメリカ人のやり方って、このこと?

アメリカの弱腰を見抜いたソヴィエトのフルシチョフは、これを機にベルリンの壁の建設をスタートさせ、またキューバには核を配備したそうで、それがいわゆる「キューバ危機」と呼ばれる事態であった模様。

結局フルシチョフは、キューバのミサイル撤去の見返りとして、これまた秘密裏に、ケネディからキューバに侵攻しない旨の保証を引き出しただけでなく、トルコに配置してあるアメリカのミサイル撤去の約束も取り付けたとか。

「外に敵を作らない」ようにしたら、それに乗じて敵がのさばっちゃった、って感じでしょうか。

ところが話はこれだけではなく、なんと、こういった一連の外交上の失敗を挽回しようとケネディが介入をはじめたのが、ヴェトナムでの悲劇(アメリカにとっての)だ、との新たな歴史認識があるらしいんです☆

こうなると、「外に敵を作らない」ってのは一体どうなっちゃったの~?状態!

真面目な話、後にレーガン大統領が「高尚な目的による戦い」だったと述べられたヴェトナム戦争については、北ヴェトナムのホー・チミンが何をしたかを知ることのできる現代のワタシとしては、レーガン氏の認識、というかヴィジョンに大いにagreeする者です。

しかし当事者だったケネディが、こともあろうか戦争中に、疑念が生じたからって同盟相手の南ヴェトナム首相を抹殺しろとCIAを送り込んじゃってた、っていうことが事実ならば、ヴェトナム戦争があのように泥沼化してしまった張本人も実はケネディだった、ということになりそうで・・・・。(笑)

 

で、ワタシは前からケネディよりレーガン派♪

レーガンといえば、スターウォーズ計画(そうなの?(笑))。

あれって結局のところお金は続かないワ、技術は追い付かないワで、何の成果もなかった愚策のように言われることもありますが、実はあの派手な打ち上げ花火にビビったソヴィエトが、がむしゃらに開発努力を続けて破産。(笑)

つまり、レーガンは戦わずしてソヴィエト体制を崩壊させちゃった、ってことにもなります。

スターウォーズ計画って、自由な民意による政策に対するチェックがはたらく社会と、それがない一党独裁による全体主義社会の本質的な差を踏まえた、フォース(ワタシは敢えて「合気」と訳したい♪)戦争だったのかもしれません。そしてその戦死者は、アルツハイマーになられたレーガン氏ただ一人・・・。

そういえば最近の調査で、アメリカ人に歴代大統領で一番人気があるのは共和党のレーガン大統領、というのがありましたっけ。

 

さて、クリント・イーストウッドについては、共和党の政治家で、リベラル色の強いハリウッドで孤軍奮闘している(?)方としか存じ上げておらず、その作品をまだ一度も(たぶん)観たことがないワタシ。

『ミリオンダラー・ベイビー』は、松本氏のお陰でケルトがからんだお話らしいと分り、俄然興味が湧いてきました。

ネットで彼の作品評をいろいろ読んでみましたが、1992年の「許されざる者」という作品も面白そう。

今度レンタルしてみよ~っと♪


ワタシにとってはスモールワールド(9.9)

今日、近所を散策する途中で、とある古刹に立ち寄りました。

そのお寺は、鎌倉時代頃からある時宗のお寺で、円光寺という名前です。

「時」「円」「光」と三拍子そろったこちらは、ワタシにとってはまさにシャンゼリオン寺。(笑)

自分が死んでもお墓なんかいらない、って常々思っている不信心者のワタシですが、どこかに入らなくちゃ納まりがつかないっていうのなら、あそこのご厄介になろうかなぁ。

 

そんなことを考えながら、久しぶりに覗いた白倉P氏のプログには、響鬼の脚本が井上敏樹氏に急遽バトンタッチされたとの記事が!

 

「そういえば先週の回は、いかにも井上脚本って感じだったよ。東映のHPで確かめようと思って忘れてた。」

とは、nobukoの夫の弁。最近の日曜の朝は、長男を部活に送り出した後、残りの家族のご飯を作りながら背中でチラチラと観てるワタシなので、うっかり気がつきませんでした。来週からはしっかり観なくっちゃ♪

 

ところで、白倉Pの文章を読んでいたら、なぜだか「ケルトの白馬さん」の最後のメールを思い出しました。

あれから一年。ずっとメールを出せずにいるワタシですが、「ケルトの白馬さん」がまたサトクリフの本を読みはじめていらしたらいいな・・・と思います。


連なるイメージ(9.29)

平穏に日々の暮らしを営んでいた農場がサクソンの夜襲を受け、一夜にして壊滅。

サクソンの放つ炎の戦車が母屋に襲い掛かると、辺り一面は火の海と化す。

大好きな父親が目の前で殺され、生活を共にしていた人々も次々とサクソンの刃に倒れゆく。

炎の中、ただ一人生き残った娘は、どこか遠くにいるはずの兄と再会できぬまま攫(さら)われ、サクソン人の子を産む。

 

『暁の車』を聴くと決まって脳裏に浮かぶのは、「ともしびをかかげて」に描き出される古(いにしえ)の悲劇のシーン。

 

一族の命運を賭けた戦に敗れ、一人生き残ったブリトンの少年が辿り着いたのは廃墟と化した町。

そこで小鳥たちと共に独り生き抜く、物乞いの少女と出会う。

病に冒され死の淵を彷徨う彼女を助けるために、自らサクソンの奴隷の道を選ぶ少年。

かつての敵サクソン人の異世界で、やがて牧場を任されるまでの信頼を勝ち得た主人公が十数年の歳月を経て再び自由を手にした時、迷わず少女との再会を望む。

 

『君は僕に似ている』の詩世界と重なるのは、二人が運命を超えて再会を果たす「夜明けの風」のラストシーン。

 

そして、もうひとつ。

 

ケルトの族長の息子でありながら、両親や兄たちとは違う肌の色をした少年・ルブリン。

そんな彼と幼い頃から「ヘーゼルナッツの片割れ同士」のようにいつも一緒だったのは、容姿が全く異なる戦士の頭(かしら)の息子・ダラ。

いつの日か、まだ見ぬ新天地を目指して北へと旅立つことを夢見る二人。

しかし、やがてダラは新族長に選ばれ、夢と共にひとり取り残されるルブリン。

そんな二人の運命を、南から侵入してきたアトリベーツ族が逆転する。

ダラが若き族長であることを隠し、亡き族長の息子として征服者と対峙し、部族のわずかな生き残りをダラに託して北へと向かわせるルブリン・・・。

 

『あんなに一緒だったのに』も、「ケルトの白馬」を思い起こさせます。

 

まるでローズマリー・サトクリフの物語世界を観ているようなSee-Sawさん、お見事っ!!


ひとのこころをたねとして よろづのことの葉とぞなりける(10.16)

「本当に面白い物語って、どんなものなんだろうね。」

「それはさ、翻訳されたものを読んだ色んな国の人が『面白い』って思える物語なんじゃない?」

 

なんてことを、nobukoの夫と話してた土曜の昼下がり。

 

面白い、知らず知らずのうちに物語の世界に入り込んでしまう、そんな作品に出会えたときは、とても幸せな気持ちになります。

ここ数年、ワタシを幸せな気持ちにさせてくれるのは、イギリスの女性作家 ローズマリー・サトクリフの作品。

ワタシが彼女の作品を読むときは、大抵の場合は翻訳されたものを読むのですが、日本に紹介されている彼女の作品はそれぞれ異なった訳者によって翻訳されています。

 

翻訳には訳者の個性が少なからず反映しますから、同じサトクリフ作品でもそれぞれの雰囲気は違って感じられます。この訳者のはしっくりくるけど、こちらのは何となく違和感・・・ということもしばしば。

でも、そんな様々な翻訳が生み出す差を超えて、一貫してワタシに届く「サトクリフ」があります。

細部に明らかな誤訳がある場合でも、全体の中でそれが誤訳だと気付かせる「サトクリフ」があります。

 

ところで、そんなサトクリフの物語世界を、何人かの演出家がそれぞれ独自に舞台化、あるいは映像化したとしましょう。

それを観る時、果たしてワタシは異なる訳者の手になる翻訳本を読んだときと同じように、一貫した「サトクリフ」を感じるでしょうか。

演出家には、翻訳者には比べようもないほど多くの表現手段が与えられています。もちろんそれは、サトクリフですら扱っていないものです。ですから、演出家による舞台表現や映像表現は、彼(女)の個性が色濃く投影された二次表現となるはず。

それでもやはり観るものに一貫した「サトクリフ」が届くとしたら、それはきっとサトクリフがイメージした物語世界が、その本質において安定した構造をなしているからにほかならないでしょう。

 

サトクリフは言葉で物語を綴っています。でもその物語は、はじめから言葉により生まれたのでしょうか。

きっとそうではないはずです。

彼女の中で沸き上がるイメージが形を求めたとき、言葉が用いられたのです。

このことはイメージをメロディーで表現する人、絵で表現する人、造形で表現する人などがいることを考えれば、容易に理解することができます。

 

言葉で綴られたサトクリフの物語。

そもそも、サトクリフが綴った言葉とワタシが読んでいる言葉の間には、訳者による差異などはとるに足らないほどの大きな隔たり、言語の違いがあります。

言語の違いは文化の違い。

異なる文化の中で暮らす読者にも「面白い」と思わせる物語と接する時、人が想起するイメージとその共有について改めて考えずにはいられないワタシです。


『デスパレートな妻たち』そこまでやるか・・・も!?(11.19)

予告に惹かれて見始めた『デスパレートな妻たち』。

そのおおげさ(過ぎ?)なエピソードのオンパレードに、最初はかなり引き気味だったはずなのに、気が付けばはや8週目。

登場するhousewife達の子供たちへの愛情に、共感し始めているワタシです☆

 

例えば、Xmas絡みのエピソードで、留守宅に入り込んだ近所のワケありティーンエイジャー・ザックを不問にしたスーパー専業主婦ブリー。

妻であり母親である自分の役割を完璧にこなさずにはいられない彼女なので、ほかの人に対しても同じように求めるはずだし、ましてや社会のルールが破られて自分の権利が侵されたら・・・と思いきや、Xmasの飾付けをして帰ったザックのこころを素直に受けとめ、尊重するブリーでした。

きっと彼女にとっての「役割」は、外から与えられた枠組ではなくって自分の中から生まれているもの、だからこそ忠実でありたいと思うんだろうなぁ・・・そう思わせる一方で、タルボットのカタログから抜け出たような格好で料理して、L.L.ビーンのガーデニングファッション(?)で庭仕事をする彼女の、いかにもな外見と機微に溢れた内面のギャップが絶妙!

そんな彼女を襲った息子の交通事故。

息子のために自ら隠蔽工作を行ないつつも、なんの呵責も感じない息子のこころを危ぶむブリー。

母親を交通事故で失った過去を持つ彼女がどんな行動をとるのか、注目しています♪

 

それから、ADHDと診断された双子の息子に、薬を与えて静かにさせることを躊躇(ためら)う元キャリア・ウーマンのリネット。

確かに薬物治療を選んだ方が自分も楽になるし、周囲に迷惑もかけなくてすむようになるけれど、それは「子供を育てる」こととは別のはなし。

親の介護の話をすれば「なんで施設に入れないの?」って言われ、近所にデイサービス施設が造られようとすると「年寄りが徘徊したら迷惑だ」とクレームが付く、そんな世間で暮らす私には彼女の葛藤はとってもリアル!

彼女のPTA奮戦記も本当に見物でした。

見習いた~い! でも無理★(笑)

 

親権を失わないようにするため、火事を起こしてしまったことを自首しない童話作家スーザンのケースにしても、ある意味で公(おおやけ)の判断を超えちゃう危うげな彼女たちのドタバタぶりを、ありえない~と思いつつ、もしも自分がその立場だったらやっぱり・・・って感じ始めてる自分がおもしろいです♪