もっと『赤毛のアン』を描きたかったモンゴメリ

Montgomery wanted to draw more Anne books !

http://www.catv296.ne.jp/~nbk/  (2007年開設)から移設

                                                                                                                                                                   

             2020年にnoteサイトに執筆した『赤毛のアン ヨセフの真実』もよろしくお願い致します。

                                                      by    nobvko


I wonder if, a hundred years from now, anybody will win a victory over anything because of something I left or did. It is an inspiring thought. '

「いまから百年後になって、わたしの遺すものやしたことによって、誰かが何かに勝つことがあるかもしれない。こう考えるだけで奮起せずにはいられない。」


2008年、L.M. モンゴメリの「赤毛のアン」が世に出て100周年を迎えます。
世界中で読み継がれ、日本でも新たな訳出が重ねられている「赤毛のアン」ですが、図書館でモンゴメリ関連の本を探してみても、書棚にズラ~っと並んでいる本のタイトルは『誰も知らない「赤毛のアン」』とか『「赤毛のアン」を 書きたくなかったモンゴメリ』 とか、なんだか否定的(?)な香りのものばかりの昨今。
それって本当~?と思うと確認したくなる私は、図書館で書庫の奥から引っ張り出してもらった本や、2006年に出版された『After Green Gables: L.M. Montgomery's Letters to Ephraim Weber, 1916-1941 』などを手がかりにして、モンゴメリというジグソーパズルのピースを集めたいと思います。

第1章 文通相手がモデル!?

1908年に出版された『赤毛のアン』(以下『アン』)の著者L. M. モンゴメリは、『アン』の執筆に取りかかる以前から、2人の男性と文通していました。

祖父の死を機に1898年に3年間勤めた教職を捨て、故郷のキャベンディッシュへ戻って自分を育ててくれた厳格な祖母の面倒をみながら、小さな作品を書いては出版社に売り込み始めたモンゴメリ。
再婚してサスキャチワン州プリンス・アルバートに離れ住む父が1900年1月に死亡した時には、最愛の人を亡くして深く落ち込んだモンゴメリでしたが、5月の日記では、

「ああ、働けるかぎり、私たちは人生を美しくできる! そして、人生は、悲しみと苦労に満ちているにもかかわらず、美しい。【中略】この世界には、私たちがそれを見る目やそれを愛する心や自分自身で集める手を持ってさえいれば、こんなにも多くの素晴らしいことがある --- 男にも女にも、芸術や文学にも、そして生活のいたるところに、この上なく狭く、限られたところにさえ --- 喜び楽しみ、感謝すべき多くの素晴らしいことがある。」
(『モンゴメリ日記(1897~1900)』p.186 桂宥子訳 立風書房)

と、再び書くことへの情熱と、必ず成功するという信念を取り戻しています。
そして、美や文芸についての意見交換をしたり、互いに励まし合うことを目的に始まった二人の男性との文通。
それは生涯に渡って続けられます。

文通相手の1人は、スコットランドに住む詩人を目指すジャーナリスト、G.B. マクミランという人物で、彼との文通は1903年から始まります。
昭和56年に日本でも出版されている『モンゴメリ書簡集I』は、モンゴメリのマクミラン宛ての手紙を編纂したもの。

「マクミランに宛てた手紙は親密であり、かつ真情を吐露している。」
(『モンゴメリ書簡集I』宮武潤三・順子訳 p.vi 昭和56年発行 篠崎書林)

と『モンゴメリ書簡集I』を編纂したボールジャー・エパリーが記すとおり、モンゴメリがマクミランとのやりとりをとても大切にしていた様子が随所から伺われ、読んでいて心穏やかになる本です。

もう一人の文通相手は、イーフレイム・ウィーバーという人物。
The Green Gables Letters: From L.M. Montgomery to Ephraim Weber, 1905-1909』や『After Green Gables: L.M. Montgomery's Letters to Ephraim Weber, 1916-1941』(以下、『ウィーバー宛書簡』)は、ウィーバー宛てに書かれた手紙を編纂したものですが、まだ邦訳がありません。
ということは、『ウィーバー宛書簡』は日本でのモンゴメリ研究ではあまり評価されていないということ?
でも、マクミランよりも早い1902年から交わされたウィーバーとの文通は、マクミランと同様、生涯に渡って続けられたんですよね。
ウィーバーとはどのような人物なのか、なんだか気になった私はネットで検索。
すると『ウィーバー宛書簡』の編者の一人であるPaul Tiessenという研究者が書いた論文(以下『Tiessen論文』)が見つかりました。http://www.bluffton.edu/conf/teachingpeace/Tiessen.html
『Tiessen論文』によると、ウィーバーはメノナイトという昔ながらの農業を営む禁欲的コミュニティの出身で、モンゴメリより4歳年上。第一次世界大戦の時期には、書簡で論争を交えたとのこと。
ウ~ン、論争!?
なんだか面白くなってきました。

早速、ウィーバーの人物説明にあった「メノナイト」という聞き慣れない名称についてネットで検索。
すると、ペンシルバニアドイツ語を話す人々で、同じ言葉を話す人々のコミュニティにアーミッシュがあることがわかりました。

アーミッシュといえば、2006年10月に起きた学校少女射殺事件を憶えている方もあるでしょう。
人類愛と絶対の平和主義を信条に、文明と虚飾を嫌い、18世紀そのままの質素で穏やかな伝統的暮らしを営む、プロテスタントの一派・アーミッシュ。
この事件は、アーミッシュの人々が居住する地区の学校に侵入した男が、教諭や男子生徒を教室から追い出した後で女子生徒らの頭部を至近距離から撃って殺害したというその犯行の残忍さ以上に、殺害されたまだ13歳の少女が年下の仲間を救おうと犯人に対して「私を最初に撃って、ほかの子たちは解放して」と訴えていたことが、世界に大きな衝撃を与えました。

そんなアーミッシュと同様、徹底した平和主義で知られる人々のコミュニティがメノナイトだそうです。
ウィーバーは30歳までカナダのメノナイトに属していましたが、研究活動を志した彼は高度な知的活動を忌むメノナイトから1900年に離脱。
そんなウィーバーと、モンゴメリは1902年から文通を始めました。
ちなみに、ウィーバーは19歳まで家族の農場を手伝っていたため、20歳で高校に再入学した時にはクラスメイトよりも四歳年上の存在だったそうです。
そして、1896年にカナダ西部のノースウェスト準州アルバータ地区(1905年にはアルバータ州となる)にあるウォータールー・メノナイト・コミュニティに居たことがあるらしい。

これらの事実はモンゴメリが、1904~5年には執筆に入っていたという『アン』の中で、

「でもこれからは、ギルバートがあんたのクラスに入るわよ。言っとくけど、前は彼がクラスで一番だったのよ。彼はもうじき十四歳になるのに、まだ四の巻なのよ。四年前、お父さんが病気になったとき、静養のために本土西部のアルバータへ行くことになって、ギルバートも一緒に行ったのよ。そこに三年もいたけど、ほとんど学校へ行かなかったんですって。これからはそうやすやすと一番にはなれないわよ、アン。」
(松本侑子訳『アン』P.170 集英社)

とダイアナに語らせている台詞を彷佛とさせます。
ウィーバーがいたというアルバータ(Alberta)州に、ギルバート(Gilbert)もいたなんて面白い♪ 
そして、人文科学や芸術、詩、政治学に精通していたというウィーバーは、もうひとりの文通相手であるジャーナリストで詩人志望のマクミランと同様に、あるいはそれ以上に、アンの次男坊ウォルター(Walter)の「美を愛する詩人」という設定と重なるように思われます。
絶対平和主義のメノナイトだったウィーバーと、美を愛するあまり戦争の醜さを忌み嫌ったウォルター。
ギルバート(Gilbert)とアルバータ(Alberta)、ウォルター(Walter)とウォータールー(Waterloo)・・・これらは偶然?

もしかしたらモンゴメリは、文通相手のウィーバーを『アン』とアン・シリーズの主要人物であるギルバートとウォルター、二人のモデルにしてたかもしれませんね。
書簡が邦訳されていないウィーバーが、ギルバートとウォルターの原型かも♪
これはとても面白いピースが見つかりました。

ところでアルバータといえば、1993年に松本侑子さんが出版された新訳『赤毛のアン』の「訳者ノート~『赤毛のアン』の秘密」という注釈で、先に引用した「本土西部のアルバータへ行くことになって」(本文 P.170)の箇所の説明として、

「モンゴメリ自身も、十四歳の時、再婚した父親のすむアルバータ州へ渡った。」

と蘊蓄(うんちく)を傾けておられます。
しかし先にも書いたように、再婚した父親が住んでいたのはサスキャチワン州のプリンス・アルバートであり、アルバータ州ではありません。
おまけに、モンゴメリがプリンス・アルバートへ渡ったのは1890年だから、十四歳のときではなく「十五歳」!
松本さんは、モンゴメリは自身の生い立ちの一部分をギルバートの設定に投影していると解釈されているようですが、かなり苦しいものがあります。
同じく「訳者あとがき」で松本さんは、

「『赤毛のアン』でのアンは、聡明で、誇り高く、それでいて心優しくて、夢や憧れを大切にする少女だった。私はそんなアンを愛しているし、彼女が生き生きと描かれている本書もまた好きだ。そのアンが、そのまま大人の女になり、働き、恋をする姿を期待していた。しかし、アンは最後に、中学校校長の職を捨てて結婚し、五人の子供の育児に追われ、夫ギルバートの心変わりを気にやむ平凡な女になる。女は個性や自我を捨てなければ大人になれないとでも言うように・・・。アンの家庭は、もちろん不幸ではない。しかしその平穏な家庭の陰で、アンは、どこかしら憂うつに沈んでいる。『赤毛のアン』のアンは、心弾むような喜びに満ち溢れていたのに、その輝きはどこにもない。」
(松本訳『アン』p.530)

と述べておられますが、アンが手塩にかけた子供の数は5人ではなく、生まれてすぐに亡くなったジョイスを除いても6人。
「アンが、そのまま大人の女になり、働き、恋をする姿を期待していた。しかし、アンは最後に、中学校校長の職を捨てて結婚し、五人の子供の育児に追われ、夫ギルバートの心変わりを気にやむ平凡な女になる。女は個性や自我を捨てなければ大人になれないとでも言うように・・・。」という解釈を読むと、ご自分の人生観を勝手に投影しようとして叶わなかった無念さのあまり、アン・シリーズを最後まできちんと読むことができなかったのでは・・・と思えてきます。


もっとも、このような捉え方をしているのは松本さんだけではなく、アンやモンゴメリについて綴っているHPや本には、

「モンゴメリーは、アンの結婚式の日に、自分の才能のなさをはっきりと認めさせ、結婚を「降伏」だと書いている。これは自分自身のことだった。」
(miyamotoさんのHPより http://160.29.86.21/miyamoto/literary-anne.htm

「ふたりの息子の母親となった後も、筆を折るモードではありませんでした。自分の才能の限界を感じて、結婚後創作を断念するアンとは異なる生き方を選んだのです」
(梶原由佳さんのHPより http://yukazine.com/lmm/j/Biography.html

など、シリーズ2巻目以降、徐々に社会的な活動から退き家庭に入っていくアンを否定的に解説するものが目につきます。
こうなってくると、私の読み方のほうが間違っているのかと心配になってきちゃいます。
というわけで、本当のアンとモンゴメリを知るために、ジグソーパズルのピース集めを続けたいと思います♪

第2章 『アン』とモンゴメリ ―本当に「結婚は『降伏』」だったの?

『アン』の構想に入った頃のモンゴメリは、どのような考えを持っていたのでしょうか。
1904年の11月にマクミランに送った手紙には、次のような一文があります。

「わたしは《恋人の小径》を通り抜けました --- 娘らしい愛らしさをたたえた、六月の《恋人の小径》ではなく、つらい涙を流しては齢を重ね、賞賛という衣をまとうように悲しみで全身をおおった婦人の美しさを持つ《恋人の小径》を。」
(『モンゴメリ書簡集I』p.9)

また、『アン』の執筆に入っていた1905年12月の手紙には次のような考え方が示されています。

「大多数の人々は時と分別にかなった事柄だけを問題にして生きており、わたしの空想の世界での生活など理解できそうもない」

「理想の世界を現実の世界となにからなにまでぴったり一致させて、現実の世界を向上させることができるなどと思わないで下さい。そういうことは不可能です。」

「たいてい、わたしは努めて表面的で月並みであろうと心掛けています。どうしようもなく絶望的になると、空想の世界に逃げ込んで、そこで出会う架空の気心の合う人々と心たのしい想像上の会話を交わすのです。現実に経験できるものほど満足のゆくものではないかもしれませんが、他の人々の知性のひらめきやそういう人々との出会いがもたらす刺激がないために、知らず知らずのうちに自分の魂を眠りほうけたような状態に陥れるよりははるかにましです。」

(『モンゴメリ書簡集I』p.19~20)

『若草物語』を書いたオルコットの大ファンだったというモンゴメリ。
人生における苦難を心の成長の糧とする積極さを持ち、現実への絶望が強ければ強いほどそれを空想の力にして、『アン』の物語を綴っている様子がうかがわれます。

ところで先に書いたように、アンやモンゴメリについて解説するHPや本には、徐々に社会的な活動から退き家庭に入っていったアンを、否定的に解説するものが目につきます。
なぜそういう見方ができるのか、不思議になってしまうくらいに。

「いまにあなたは有名になるわよ、ポール(アンの台詞続く)
「ご自分だって有名になるかも知れないじゃありませんか、先生。この3年間、先生の作品をずいぶんたくさん拝見して来ましたよ」
「いいえ、あたしには自分の限界が分かっているの。あたしには詩は作れるのよ。それから子供たちが愛して読んでくれて、編集者が喜んで原稿料の小切手を送ってくれる程度の、ちょっとした空想的な短編は書けるわ。でも大きなことは出来ないの。あたしがこの世で不滅であり得るたった一つのチャンスはあなたの『追憶』の片隅に名をとどめることなのよ」

(『アンの夢の家』(以下『夢の家』)p.29 村岡花子訳 新潮文庫)

これはモンゴメリがシリーズ4番目の作品として1916年、41歳の時に書いた『夢の家』(後に1936年に書いた『アンの幸福』がシリーズ4作目に位置づけられるので、シリーズ構成としては5作目)に出てくる、アンとポールの会話です。

「『お見せしたいもの』とは詩をいっぱい書き付けた手帳であった。ポールは心に湧く美しい空想を詩に綴っていた。(中略)アンは心からの喜びを味わいながらポールの詩を読んだ。その詩は人を惹き付ける力と天分にみちていた。」
(村岡訳 『夢の家』p.29)

というように、モンゴメリはアンの教え子・ポールに、アンを遥かに超える創作の才を与えました。
ファンの人たちはこのことをもって「自分の才能のなさ」とか「才能の限界を感じて創作を断念するアン」と、書いているのでしょうか。

モンゴメリは、大ヒットした『赤毛のアン』の続編として、『アンの青春』(1909年出版 以下『青春』)を書かされたことに不満を述べています。

「先日、二冊目の『アン』ものを書き終えて、いま筆を入れているところです。あとでタイプ清書しなければなりません。これは、出版社からの依頼があって、冬からとりかかったのですが、時間はたっぷりあるものと思っていました。ところが、一冊目が売れ出してからは、十月までに仕上げるようにとうるさく言ってくるようになったのです。その結果、この夏の暑いさなか、ずっと、死に物狂いで書きまくってきました。こういうわけですので、この本は --- 比較してのことですが --- 第一作ほど出来は良くないと思います。でも、わたしには判断できないのかもしれません --- 『アン』に首までどっぷり浸かりっぱなしだったので、アンと聞いただけで気分が悪くなるのですから。実を言うと、ここのところかなり無理をかさねてきましたので、体調は決して良くありません。気力が全くなくなったように思われるのです。 --- いつもひどい疲労感がつきまとい、キップリングの言葉を借りると、あたかも「未来永劫、バッタリと倒れたまま」、永遠の眠りが訪れるのを待っていたいような気分なのです。この本が出版されたら、ひと休みするつもりです。ちょっとどこかに旅行したいのですが、もちろん、祖母をひとりきりにしてはおけませんので、それはできない相談です。」
(『モンゴメリ書簡集I』p.49)

ここからは、自分の内側から湧き出る力に突き動かされて綴る物語とは違う、求められ絞り出すような創作活動の辛さが伝わってきます。
私の大好きな3冊目の『アンの愛情』(1915年出版 以下『愛情』)についても、

「この作品が面白くてたまらないと思ったことは一度もありません。全然書きたくなかったのです。それに、今となっては、さまざまな国民が死闘に明け暮れているというのに、落ち着き払って腰をおろし、女生徒たちのために、女生徒たちのささいなふるまいについて書くなんて、ほとんど不可能と思われます。」
(『モンゴメリ書簡集I』p.87)

とマクミランに書き送っています。
そこには、第一次世界大戦(1914~1918)のさなかの創作活動の苦悩が現れています。
41歳で綴った『夢の家』の物語で、若い25歳のアンに自分とは別の選択、すなわち結婚して家庭に専念する道を選ばせたのは、このような実体験からかもしれません。

「いいえ、あたしには自分の限界が分かっているの。あたしには詩は作れるのよ。それから子供たちが愛して読んでくれて、編集者が喜んで原稿料の小切手を送ってくれる程度の、ちょっとした空想的な短編は書けるわ。でも大きなことは出来ないの。」
(村岡訳『夢の家』p.29)

様々な経験を積み重ねるであろう人生の結晶として生まれる作品でなければ、自分は取り組みたくないし書きたくはない、という作家としての美意識や自戒の念が、アンに上記の台詞を言わせたのではないでしょうか。
そういえば、モンゴメリはマクミランと文通を始める際(1903年)、次のようなことを言っています。

「わたしが文学にのめり込んでいるのは生計を立てるためなのです。散文は売れるので書いているのです。詩を書く方が好きなのですが。大作家になどなれないことは承知しています。わたしの望みは次のことだけ --- わたしが選んだ職業で立派な職人になりたい、ということ。巨匠の仲間入りなどできっこありませんが、現代の一般労働者の間でそれなりの地位を手に入れたいと思っています。それがわたしの望み、あるいは、期待することの全てです。」
(『モンゴメリ書簡集I』p.4)

「大作家になどなれないことは承知しています。」と書いていますが、本心ではないでしょう。この手紙を書く3年前の1900年の日記には、自分は必ず成功する、との信念を綴っているのですから。
そして、他者の中に大きな才能を認めることも、自分は「大きなことは出来ない」なんて言えちゃうのも、よほどの力と自信があればこそだと思うのです。
そして、「文学にのめり込んでいるのは生計を立てるため」と述べているモンゴメリは、本当はアンのようなペースで暮らし、アンのように人間を育み、そしてアンのように世界と関わることで生まれるイメージを詩に綴っていきたいと願っていたかもしれません。
ですから、

「ふたりの息子の母親となった後も、筆を折るモードではありませんでした。自分の才能の限界を感じて、結婚後創作を断念するアンとは異なる生き方を選んだのです」
(梶原由佳さんのHPより http://yukazine.com/lmm/j/Biography.html

というのは、因果が逆だと思う私です。
アンが結婚する物語が出版されたのは1917年、モンゴメリ自身の結婚の5、6年後のことであり、彼女は自分にとってより望ましい生き方を空想の中のアンに託したのではないでしょうか。

「モンゴメリーは、アンの結婚式の日に、自分の才能のなさをはっきりと認めさせ、結婚を「降伏」だと書いている。これは自分自身のことだった。」
(miyamotoさんのHPより http://160.29.86.21/miyamoto/literary-anne.htm

という解説をしている方があると書きましたが、村岡花子訳版を読む限り幸せいっぱいの結婚式の描写はあっても「降伏」なんてどこにも書かれていません。
もっとも、モンゴメリは自身が結婚した日の心境について日記に次のように記しています。

「式が終わり、ふと気が付くと夫の隣に座っていた --- 私の夫! --- ふいに私は反逆心と絶望感に襲われたような気がした。自由になりたい!まるで、囚人のようだ --- 望みのないとらわれの身の。」
(『L.M. Montgomery』p.56 桂宥子 KTC中央出版)

でもこれは、結婚から半年後の1912年1月に書かれた日記でモンゴメリ37歳、『夢の家』でアンが結婚する4~5年ほど前のものです。
結婚する1911年までおよそ12年間に渡り、厳格な祖母を一人で世話してきたモンゴメリ。
このときの彼女は、おばあさんが亡くなったばかりであったことを思うと、このような気持ちに駆られたとしても不思議ではなく、この述懐をもってモンゴメリ(さらにはアン)が結婚を「降伏」と捉えていたというのは短絡に過ぎるのではないでしょうか。
miyamotoさんに限らず、このような解釈をされている方は女性であれ男性であれ、「結婚=降伏」という観念でモンゴメリを解釈することで、モンゴメリと『アン』をそのようなご自身の人生観(例えばジェンダー・フリーとか)の支持者に仕立て上げようとしているのでは・・・と勘ぐりたくなります。

『モンゴメリ書簡集I』には『夢の家』出版後に書かれた書簡が載っていましたが、第一次世界大戦や1912年のタイタニック号沈没の話ばかりで、『夢の家』に関する記述は見当たりませんでした。
なぜアンの結婚に託した思いが記されていないのか、あるいはなぜ『アンの青春』のときのような「アンと聞いただけで気分が悪くなる」といった愚痴が聞かれないのか、そのわけはこれから探していくとして、ブリテン・ケルトの雰囲気溢れる『夢の家』のお話には、「物語を読めばわかるでしょ♪」というモンゴメリの自信と創作への情熱が満ち満ちているように思う私です。

というわけで、本当のアンとモンゴメリを知るために、ジグソーパズルのピース集めは続く♪

第3章 『アンの夢の家』はモンゴメリ の夢

ここまでモンゴメリについての巷(ちまた)に出回る定説(?)を、「それ本当ぉ~?」って検証してきた私が、1908年にウィーバー宛に書かれた手紙の内容を確かめるために注文した『ウィーバー書簡』。 
手もとに届いた本の表紙を見てビックリ! 
副題に「1916ー1941」とあるじゃぁあ~りませんか!! 
アマゾンの注文画面でもちゃんとそう書いてあったはずなのに、全く気付かなかったなんて・・・あぁ、ウッカリ☆
こんな失敗のせいもあって、こんなことしてること自体なんだかな~☆と思えてきた今日この頃。
アン・シリーズが好きなら、モンゴメリファンの方たちがなんて言ってようが、気にしなければいいんですもの。 
そんなことを思いながら『ウィーバー宛書簡』をパラパラとめくっていたら、とあるページの手紙文に目がとまりました。 

' Benson's recent biography of Charlotte Bronte fascinated me. But I do not think Charlotte was in the least like the domineering little shrew he pictures her --- any more, perhaps, than she was like the rather too saintly heroine of Mrs. Gaskell's biography. I doubt if anyone knows, or knew, or ever will know, the real Charlotte Bronte. I love Charlotte so much that I am angry when anyone tries to belittle her. But I will admit that she seemed to have an unenviable talent for disliking almost everybody she met. Charlotte had no gift for suffering fools gladly. And the things she says about the man she afterwards married!! '
(1933年7月『ウィーバー宛書簡』p.206) 

訳すとこんなふうになります。 


「ベンソンが最近出版したシャーロット・ブロンテの伝記には心奪われました。でもシャーロットが、彼が描くような人を圧する背の低いガミガミ女だったとは思いません --- さりとて、ギャスケル夫人が書いた伝記にあるような、あまりに気高いヒロインというわけでもないでしょう。誰も本当のシャーロット・ブロンテを知ることなどできないと思う私です。彼女が貶(けな)されるのを見ると腹立たしくなるほど、シャーロットを愛しています。そんな私でも、彼女は会う人すべてを嫌ってしまうという、あまりうらやましくない性格の持ち主だったらしいことは認めざるを得ません。シャーロットは愚かな人たちを喜んで辛抱する資質に恵まれなかったのです。のちに結婚することになる男性についてさえも、彼女はそういうことを言っているんです!!」 

・・・私も、アンやモンゴメリが過小評価されると腹が立つクチ!? 
というわけで、ジグソーパズルのピース集めを続けましょう♪ 

モンゴメリは8~9歳の頃から「精神的で永遠なる事柄」について強い好奇心をもっていたと、22~23歳の日記に記しています。 
モンゴメリは長老派教会という プロテスタント に属していますが、「『教会に参加する』ということは、私自身が受け入れない、受け入れることのできないある教えに同意することを意味した」とも記していたモンゴメリ。 
彼女が日記に綴っていた「不滅の真理の輝き」と、それを求める「精神的苦闘」とは、一体どのようなものだったのでしょうか。 (『モンゴメリ日記(1897~1900)』p.68~71) 

1906年9月にはマクミランへ、次のような一文で締めくくられた手紙を送っています。 

「海岸に行くと、わたしはいつも仲間がほしくなります --- 海の広さ、果てしなさ、広大無辺さに触れると、自分の卑小さに否応なく気付かせられて、無性に人恋しくなります。でも、森の中では、ひとりっきりでいるのが好きです。どの木もみんな昔からの親友ですし、ひそやかに吹き抜ける風はどれも陽気な仲間ですから。もし、霊魂再生説を本気で信じるなら、この世に生をうける以前のある一時期、わたしは木だったことがあるのだと思うくらいです。森の中にいると、いつも、完璧に、心ゆくまでくつろげるのです。 
ところで、あなたはその霊魂再生説を心から信じる気になりますか。わたしにとっては心惹かれるものです。憂うつな気分のとき、生命は脈々と続いてゆくのだと考えるのが好きです。ひとつの生命と次の生命の間に死という安らかな眠りをはさんで --- 忙しい昼の時間にはさまれて夜があるのと同じように。それは不死の生ということほどには信じがたいとは思われません。さて、そろそろ危険な深みにはまりこみそうになってきましたし、時間も遅くなりました。おやすみなさい、未来の休暇の楽しい夢を見ますように。」

(『モンゴメリ書簡集I』p.31) 

教会の信仰を超えたものへと、心を向けていたモンゴメリ。 
しかも彼女は、世間そして友さえも、そのままの自分を受け入れるわけがないと感じていたようです。 
そして冒頭紹介したように、シャーロット・ブロンテが好きだったというモンゴメリ。 
そんな彼女が、ブロンテやその作品を生んだ英国北部地方への憧憬を全開にして描いたのが、「月」「りんごの木」「精霊の正夢」「女王を戴く」「円循環の美」「吟遊詩人」「大海原へとくり出すノルマンと交わりゆくケルトの民」などといったブリテン・ケルトのイメージで彩られた『アンの夢の家』の物語なのでは? と思う私。 
神秘主義の詩人、ウィリアム・バトラー・イェーツをして「イギリスで最もハンサムな青年」と言わしめたイギリスの詩人・ルーパート・ブルックが詠んだ 

我々の親しいものたちは 
あちこちにやしろを築いた、 
そこで我々の知っている神々に祈り、 
そしてささやかな美しい家に住む
 

という詩を巻頭に掲げた『夢の家』では、例えばこんなエピソードが語られます。 

アンとギルバートが初めて住んだのは、「港の海岸に打ち上げられた大きなクリーム色の貝殻そっくりに見える」小さな家。 
その家が建てられたのは、今は灯台に住む年老いたジム船長がまだ16歳の時でした。 
英本国から プリンス ・エドワード島の小学校へ赴任した先生から、海辺でありとあらゆる詩を暗唱してもらった10歳年下のジム船長。 
その先生には一緒に来るはずの花嫁がいたのですが、両親に死に別れた後ずっと世話をしてくれた伯父さんの看護のために来れないでいました。 
ある日、その花嫁がとうとう来ると喜ぶ先生はこう言いました。 

「【前略】封を切る前から私にはよい知らせだということが分かっていた。二三日前の夜、あの人を見たからね」 
(村岡版『夢の家』p.57) 

先生はある才能というか ― または呪いというか、そういうものにときおり見舞われるのでした。 
これから起ころうとすることが見える先生。 
四か月前の晩、座って炉の火を眺めているうちに英本国の見慣れた古い部屋が見えて、そこに婚約者がいてうれしそうに先生のほうへ手をさしのべているのを見ていたので、よい便りが来ると分かっていたのです。 

「いいや、夢ではない。だが、この話は二度としないことにしよう。君がこのことを本気で考えると私達はこれまでのような友達でなくなるから」 
「私には分かっているのだ。前にもこのために友達を失ったことがある。私にはその人達を責める気はない。時にはこのことのために私は自分自身にさえ親しめないことだってあるのだもの。このような力には神性がまじっている --- よい神性かわるい神性か、だれに分かるというのだ?
 神にしろ、悪魔にしろ、あまり密接にかかわりあうのにはわれわれ人間はしりごみするのだ。」 
(村岡版『夢の家』p.58) 

先生を慕う村人たちは総掛かりで新しい家を用意しました。 
しかし海が時化て、一月で来るはずだった花嫁を乗せた船は2か月たっても到着しません。

「(先生は)腕組みをして大岩によっかかり、海をじっと眺めてました。【中略】『ジョン --- ジョン』とわしはまるで ---まるで--- おびえた子供のように大声をあげたですよ、『眼をさましておくれ --- 眼をさましておくれ』とね。」 
(村岡版『夢の家』p.61) 

「万事安心だ」 
「私はローヤル・ウィリアム号がイースト・ポイントをまわって来るのを見た。あの人は夜明けにはここへ着くだろう。明日の晩、私はわが家の炉ばたに私の花嫁と一緒に座っているだろうよ。」
 
(村岡版『夢の家』p.62) 

そのような不思議な昔話に、真剣に耳を傾けるアン。 
ジム船長はそんなアンに「同類(キンドレッド)」を感じるのです。

さて、『夢の家』のお話には他にもレスリー・ムアという美しい乙女と、最後にレスリーと結ばれる作家志望のジャーナリストが登場しますが、このジャーナリストは『夢の家』の初代住人である「先生」の子孫なのです。 
そして、小麦のような輝く髪とまっかな唇の丈高い、しかし少女のようなレスリーには、母親が借金のかたに縁組みしたという「夫」がいますが、旅先で事故に遭い気が触れてしまってからの11年もの間、ずっとその看護をしているのでした。 
しかし物語のラストで、正気に戻れる可能性があることを知ったギルバートが手術を勧めた結果、男は「夫」にそっくりな従兄弟で「夫」はすでに死んでいたことがわかります。 
12年間の看護を「責任の神聖」(p.275)の教えどおり立派に果たしたレスリーに「真実」「自由」を与えた(p.285)という『夢の家』のお話。 
「偉大な愛と非常な苦痛がどんな奇跡を起すか、われわれには量り知れませんからね」(p.62)と物語の序盤でギルバートに語らせたモンゴメリは、この物語を書くにあたってどのような「空想」の翼を羽ばたかせていたのでしょうか。 

モンゴメリは1911年に結婚するまでの12年もの長い歳月を、両親を亡くした自分を育ててくれた祖母の世話に費やしていたことにはすでに触れました。 
そんな彼女と重なる境遇の女性やエピソードを描いた『夢の家』が上梓されたのは1917年。 
こうしてみると、モンゴメリは自分が果たせなかった花嫁の姿をレスリーに託したのではないかと思えてきちゃう私。 
だって、レスリーと結ばれる作家志望のジャーナリストは「先生」の子孫=元英国 人ということになりますが、モンゴメリが1903年から文通していた詩人志望のジャーナリスト・マクミランも 英国人なのですから。 

現実の世界でモンゴメリが結婚した相手は牧師・ユーアンでした。 
牧師の夫は1919年に精神の病を発症します。 
このあたりのことも、『夢の家』に出てくるレスリーの「気が触れてしまった夫」と重なって見えますが、それより私が気になるのは「これから起ころうとすることが見える先生」の描写です。 

『夢の家』の冒頭に、こんなシーンがあります。 
結婚式の支度をしながら、ハーモンという小母さんに「中学校の先生をしているのに較べたら、結婚生活はあんたの思ったほど気に入らないでしょうよ」と言われたことを思い出したアンは「ハーモンの奥さんは、知らない困難に飛び込むより現在しょってる苦労のほうがましだというハムレットの意見に賛成してるのよ」と言って朗らかに笑います。
するとダイアナが言うのです。 

「『ハーモンさんの言うことなんか気にかけることはないわよ。』ダイアナは主婦生活四年の貫禄を示して慰めた。『勿論、結婚生活にはいいこともあれば悪いこともあるわ。万事が必ずうまくいくものと考えてはならないのよ。でもね、アン、結婚生活は幸福なものだということは確かよ、自分に合った人と結婚すればね』」 
(村岡版『夢の家』p.11) 

いっぽう現実の世界では、自身の結婚式での心境について「自由になりたい!まるで、囚人のようだ と日記に書いたモンゴメリ。 
もし、結婚式の時モンゴメリに訪れてしまったものが、これから生涯を共にする夫が「自分に合った人」ではないという直観と、夫の発病の予感だったとしたら・・・。 
新婚旅行先のスコットランドで、初めて対面した文通相手のマクミランに「同類(キンドレッド)」を確認してしまったとしたら・・・。 

『夢の家』を執筆した際には、いつものように「スケジュールがきつすぎる」とか「気が乗らない」といった愚痴をマクミランへの手紙に書かなかったモンゴメリ。 
「不滅の真理の輝き」を求めるがゆえの人には理解されない「精神的苦闘」や、現実と空想のはざまで揺らぐ心の葛藤が、物語の創作を通じて昇華される感覚を味わい始めていたのかもしれません。 

「ジム船長が生きていてこの本の驚くべき成功を見ることができないのをレスリーは歎いた。『批評を読んだらどんなに喜んだか知れないのに【中略】ジム船長の生活手帳がベストセラーの筆頭にあるのに --- ああ、それだけ見るまで生かしておきたかった、アン!』 
然し、悲しみにもかかわらず、アンの方が賢かった。『ジム船長が望んでいたのは本そのものだったのよ、レスリー ---
 本について言われる言葉じゃないのよ --- で、その望みを達したわけよ。あの本を読みおわったのですもの。【中略】ジム船長は満足したのよ --- わたしには分かっているわ。』」 
(村岡版『夢の家』p.345) 

人から望まれて書いたり、人から高い評価を受けたりすることで心が満たされるのではなく、自分自身が思い描くイメージが望みどおりの形となることで得られる満足感の尊さを、モンゴメリは『夢の家』のラストで描いてみせたのではないでしょうか。

マクミラン宛の手紙では1917年に出版された『夢の家』について一言も書かなかったモンゴメリが、1917年11月にウィーバー宛に書いた手紙には次のように書いているのを見つけました。

'My new --- and 8th --- novel came out the last of August, and seems to be doing pretty well. It was called Anne's House of Dreams and is published under a new arrangement.'
(『ウィーバー宛書簡』p.66)

「新しい、そして8巻目の小説が去る八月に出来上がったのですが、わりとうまく運んでいます。アンの夢の家という本なのですが、これはあたらしい版元から出版したんです。」(水野暢子訳)

モンゴメリは、これまでのシリーズを扱わせていたPage Co.から離れ、カナダ、アメリカ、イギリスそれぞれでの出版を別々の出版社に任せることができたことを喜んでいます。
Page Co.は作家を食い物にする出版社だったようで、この出版社を離れた他の有名な作家と同様に、自分の作品の印税について相当なトラブルがあったことをうかがわせる文章が綴られています。
そこに現れているモンゴメリの喜びは、経済的に報われるようになったことについてのものというよりは、Page Co.の不誠実さとつき合わされる心労から解放されたことについての喜びだと思います。なぜなら、この手紙の相手であるウィーバーは、先に書いたように厭世的な価値観を持つコミュニティの出身であり、自らの意志でそこを離脱したとは言え世俗的な価値を求めるタイプの人物とは思われないからです。モンゴメリはそんな相手に、これ見よがしにお金儲けの話をするような、デリカシーのない女性ではないはずです。

その一方で彼女は、もう一人の文通相手のマクミランに対しては、ウィーバーに書いたような出版社絡みのことさえ『夢の家』については記していません。
1919年2月の手紙には、次のように書かれてあります。

「『アンの夢の家』の書評の載っている『ガゼット』紙も届きました。ある切り抜き提供会社も『スペクテイター』紙に載ったものを送ってくれましたし、『ブリティッシュウィークリー』にも、似たりよったりのものが載っていました。」
(『モンゴメリ書簡集』p.98~99)

マクミランは、『夢の家』の英国での書評の掲載された雑誌をモンゴメリに送っていたようです。しかし、モンゴメリ自身は『夢の家』についてのコメントをしていません。

独特の社会観を持つウィーバーに対しては、『夢の家』を巡る出版社との関係という、自身の身近な社会問題を話題にしているモンゴメリ。
その一方で、詩人を志す英国のジャーナリストのマクミランには『夢の家』について何も語らないモンゴメリ。
『夢の家』に登場する「作家志望の元英国人ジャーナリスト」について、マクミランはどう思ったのか知りたいものです。
でも、それは無理でしょう。なぜなら、モンゴメリはマクミランからの手紙を後世に遺すことはしていないようだからです。ひょっこり出てこないものでしょうか♪


というわけで、本当の『アン』とモンゴメリを知るために、ジグソーパズルのピース集めは続く♪

第4章 モンゴメリは主戦論者!?

さて、モンゴメリとウィーバーは第一次世界大戦(1914~1918)の時期に戦争に関する意見の対立をみたらしい、ということは既に書きました。

'It's a commercial war, and utterly unworthy of one drop of Canadian blood spilt for it.'
(Tiessen論文)

「これは商業戦争だから、カナダ人の血を一滴たりとも流す価値などない」
と、1915年の書簡で主張したウィーバー。
モンゴメリはどのような返事を書いたのかを『ウィーバー宛書簡』であたってみる前に、まずは『ウィーバー宛書簡』の編纂者の一人、Paul Tiessenという研究家の論文について触れておきたいと思います。
なぜならその論文では、モンゴメリはあたかも戦意高揚に励む主戦論者であり、戦争による社会の進歩を信じる者であるかのように表現されているからです。
果たしてモンゴメリにとっての戦争は、Tiessen氏言うところの'clear-cut matter of patriotism'(愛国心の明快な発露)であり、'a bridge to a new, golden age scientific discovery and artistic renewal.' (科学的発見と芸術的革新の、新しき黄金時代への架け橋) だったのでしょうか。

「『けっきょくのところ、これは商業戦争ですから、たとえ一滴といえども、善良なるカナダ人の血を流す価値はありませんよ。』海岸のホテルからやってきた、見知らぬ人がいった。」
(『アンの娘リラ』(以下『リラ』)p.106 掛川恭子訳 講談社)

これは、アンの長男ジェムが出征する朝、駅で見送る人々に囲まれ途方に暮れて「とりのこされ」たリラの「そばを行ったり来たりする人たちのきれぎれの会話」の一つとして出てくる台詞です。(なお、この台詞群は私が愛読した講談社の村岡版では省略されています。)
これがウィーバーの主張そのものであることを、Tiessen氏は論文の中で指摘しています。そして、

'Is it possible that Montgomery was placing a deconstructive wedge into her very text, by thus quoting Weber's crisp words?'(モンゴメリはウィーバーの言葉を引用することで、自身の本の内容に再構築への楔を打ち付けたかったのではなかろうか?)と推論しています。
しかし、

「リラはこの十分のあいだに、怒り、笑い、軽蔑し、おちこみ、感動しと、さまざまな感情につぎつぎにみまわれて、くらくらするほどだった。まったく、人間というのは --- なんとおかしな生き物なのだろう!まったくなんにもわかっていない。」
「リラは、まるで奇怪な悪夢に入り込んでしまったような気分だった。ここにいるこの人たちは、三週間前、作物や価格や村のうわさを話していたのと、同じ人たちなのだろうか?」

(掛川訳『リラ』p.108)

と続く文脈から考えてみても、先の「見知らぬ人」の台詞には後のテーマへの繋がりが込められているようには見えませんし、ましてやTiessen氏の言うような「本の内容の再構築への楔」といった重要さはみじんも感じられません。
それよりも、講談社の村岡版では同様に省略されていたいくつかのシーンが、私には興味深く思われました。
例えば、「熱狂的愛国者の不信心者」ノーマン・ダグラスという男とメレディス牧師の対話です。

「【前略】それでこのあいだの夜、『血を流すことなしには、罪の許しはありえない。』をつかって、お説教したんですな。おれはあんたの考えに賛成できなかった。」
「もしジェリーが殺されたとしても、そんなりっぱなことをいっていられますかね?」


「牧師さんが本気でそう思っているのか、ただの説教用の飾り文句なのか、たしかめたい」ノーマンに対して、メレディス牧師は自分の長男ジェリーが従軍に応じるため町に行った夜、ひとり書斎にこもってつらい一時間を過ごして導き出した結論を次のように話します。

「わたしの気持ちがどうであろうと、わたしの信念をかえるわけにはいきません --- わたしの確信にかわりはありません。祖国を守るために、その国の息子たちが命を投げだす覚悟があるなら、かれらの犠牲ゆえに、その国は新たな理想を勝ち取ることができるのです。」

それに対してノーマンは応えます。

「あんたは本気だ、牧師さん。人が本気でいっているときは、かならずわかる。おれが持って生まれた才能なんだ。おおかたの牧師さんがたにとっちゃ、おれは恐怖の存在というわけだ! だがあんたの場合は、まだ一度も、本気でものをいってないとこをとっつかまえたことがない。いつかとっつかまえてやろうとねらっているんだが --- それがあるんで、がまんして教会にいっている。【後略】」
(掛川訳『リラ』p.96~97)

あるいは、これから「戦いにいく者たちのために」教会で「開かれたお祈りの会」で、「戦争反対論者」であるプライアー氏が

「この堕落した戦いが終わりますように --- 兵士たちはだまされて西部戦線にかり出され、人殺しをさせられているが、手遅れにならないうちに、自分達の罪に目覚めて、悔い改めるように --- 軍服に身を固めてここに出席している、哀れな若者たちは、殺りくと軍国主義への道に追い立てられたのだが、いまならまだ救われるチャンスがある」

(掛川訳『リラ』p.320)

という、およそ場にそぐわない祈りをささげたとき、キレたノーマンがプライアー氏に飛びかかるという場面もそうです。このあとでモンゴメリは、良識派ギルバートに

「ノーマンのひとり芝居は、まったくまちがっているし、言語道断だし、ばかげていた。だけどそれにしても、それにしてもだよ、アンおじょうさん、じつにすっとしたじゃないか」

(掛川訳『リラ』p.319~323)

「頭をのけぞらせて笑」わせています。その描写からは、モンゴメリの素朴で真摯な戦争観、というより死生観が伺われるのです。

彼女の死生観が端的に綴られているシーンは、『アンの愛情』のなかに見られます。結核で死にゆく友ルビー・ギリスが、死を恐れる胸の内をアンに吐露する場面です。

「『あたしは思うのよ、ルビー』と、アンはためらいながら言い出した --- 心の奥深くひそむ思いを、或いはこの世と次の世に関する偉大な神秘について、もとの子供じみた考えかたの代りに最近になって、ぼんやりとしてではあるが、あたまの中に形作られつつある、新しい観念を口に出して語るのは、アンにとっては非常に困難なことであった。とりわけ、それをルビー・ギリスのような相手に話すとなると、これはまた一層にがてなのであった。
『あたしたち多分、天国について天国のありのままの状態や、あたしたちのためにそなえてあるものにたいして、たいへん間違った考えかたをしてるんじゃないかと思うのよ。あたしは大抵の人が考えているように、来世の生活がこの世の生活とひどくちがっているとは思わないわ。あたしたちはただそのまま生活を、この世の生活を殆どそのまま続けるので --- 自分であることには変わりないのよ --- ただ、良いおこないをすることと --- 最高の理想にしたがうことが、今よりずっとらくにできるにちがいないと思うの。妨げやもつれなどがいっさい取り去られ、ものごとをはっきり見られるようになるのよ。怖がっては駄目よ、ルビー』」


「宝をこの地上にのみたくわえ、人生のとるに足らぬ --- うつり行くもののみのために生きて来た」ルビーにいたたまれぬほどの苦痛をおぼえながら同情するアン。
そしてその夜を境にして、アンは人生に更に深い目的を持つようになります。

「表面は以前と変わらぬ行き方をするだろうが、既に深い底が揺り動かされていた。自分はみじめな、ルビーのようであってはならない。一つの生涯の終わりに到達し、次の世と向き合う時全然異なったものに立ち向かう恐ろしさで --- 尻込みするのではいけない --- 平生の思想や観念や抱負とかけはなれた或るものへの恐怖で身悶えするのであってはならない。そのときどき、その場その場では美しく、すぐれたものであっても一生の目標とする値打のない、小さなことに生涯を賭けるべきではない。最高のものを求め、それに従わなくてはならない。天上の生活はこの地上から始めねばならぬ。」
(村岡版『愛情』p.166~170)

『愛情』でアンが至ったこのような思いは、そのままモンゴメリの中にあるものだったのではないでしょうか。
それは当時の平均的な教会の教えを超えていたため、「不信心者」とも受け取られかねないものだったはず。
そういう意味で、「おおかたの牧師さんがたにとっちゃ、おれは恐怖の存在」と自認するノーマン・ダグラスという人物造形には、ちょっぴりモンゴメリ自身のものの考え方が潜んでいるように感じる私です。
そんなノーマンをモンゴメリは「熱狂的愛国者」というキャラに仕立てましたが、それは自分自身や物語の主人公であるアンと似て非なるものとして際立たせるためのことであって、「熱狂的愛国者」こそが自分の是とする人物像そのものとしたかったわけではないと思います。普通の人々の中にある素朴な感覚、常識のある面を強調してみせたり、心の奥底に隠された何かをあぶり出してみせる道化の役回りなのです。そしてそれは、ノーマンともめた「戦争反対論者」プライアー氏についても言えることです。


モンゴメリはアンがそうであったように「熱狂的愛国者」ではないと思います。
なにより、醜い戦争を忌み嫌っていたのに最後は詩を書き続けるために従軍した詩人ウォルターの一連の描写と彼の台詞の中にこそ、モンゴメリの戦争観、というより彼女が理想と望んだ死生観があるのではないかと思う私です。

「だれも皆、ウォルターのまわりにいた --- この人たちをウォルターは、ちょうど目の前にいるリラを見るのと同じように、はっきり見た。それらむかしの陽気な小さな幽霊たちは、ウォルターに向かって、こう言った。『ぼくらは、過去の子供たちなのだよ、ウォルター --- 現在の子供たちと未来の子供たちのために、一生懸命に戦って下さい。』
『どこへ行っているの? ウォルター。もどっていらっしゃい --- もどっていらっしゃい。』リラが、かるく笑いながら叫んだ。」

(村岡訳『リラ』p.173 講談社)

まるで『夢の家』の先生のように、虹の谷で幻影を見るウォルター。
既に1919年に出版された『虹の谷のアン』においても、ウォルターに「笛吹き」という無気味なヴィジョン(正夢)を見せ、続く『リラ』で戦争の過酷な現実にもがき苦しむアン一家を鮮明に描き出していることからも、モンゴメリがいたずらに戦意を煽る主戦論者などではないことがわかります。
そして『夢の家』の巻頭に掲げられた詩の作者ルーパート・ブルックのように、第一次世界大戦で戦死するウォルター。(ルーパート・ブルックは、第一次世界大戦に出征、1915年に戦病死しています。)

メレディス牧師に語らせている「血を流すことなしには、罪の許しはありえない。」「犠牲ゆえに、その国は新たな理想を勝ち取ることができる」という台詞などから、Tiessen氏はモンゴメリが戦争を 'a bridge to a new, golden age scientific discovery and artistic renewal.' (科学的発見と芸術的革新の、新しき黄金時代への架け橋)と捉えていると思ったのかもしれません。
しかし、先ほども取り上げた『愛情』で、ルビーが何を忘れていたのかをアンに思いめぐらせる部分が、この点への理解を深めてくれると思うのです。

「永遠までもつづく偉大な事柄、二つの世界をへだてる溝に橋をかけわたして、死を一つの住家から他の住家へ --- たそがれから晴れ渡った白日の中へうつる動きにすぎないものとする、偉大な事柄」
(村岡版『愛情』p.167)

モンゴメリ言うところの「橋」とは、戦争という犠牲によってだけ架けられるものではなく、絶え間ない日常の営みの、例えばアンの子供たちが遊んでいた虹の谷のような場所に、架けられるものだと思う私です。

ところで冒頭紹介したウィーバーの主張に対する1916年1月のモンゴメリの返事には、戦争のもたらす様々な苦難や葛藤に触れた後で次のように続いています。少し長いのですが引用します。

'The one who goes is happier far
Than those he leaves behind.'

But there was one sentence in your letter I can not believe you really meant. You must have been joking grimly. You say 'It is a commercial war and utterly unworthy of one drop of Canadian blood being spilt for it.' Surely, surely, you can not so have missed the very meaning of this war --- that it is a death-grapple between freedom and tyranny, between modern and medieaval ideals ( that isn't spelt right. I never can spell it right), between the principles of democracy and militarism. I believe that it is the most righteous war that England ever waged and worthy of every drop of Canadian blood. If my son were old enough to go I truly believe that I could and would say to him 'Go,' though it would break my heart. And if he fell I would believe that he perished as millions more have done, cementing with his blood the long path to that 'far-off divine event' we all in one way or another believe in! 
There, I feel much better after getting rid of that! It has been simmering and fermenting uncomfortably in my soul ever since I received your letter last July. Now it is 'let' and my soul will have peace!
Perhaps some of our boys did go 'for adventure' in the early weeks of the war. If so they no longer do so. A very different spirit seems to have come over our young manhood. They are going because they realize that it is their duty to go --- because a hideous danger menaces our very hearths and they must defend them. Two of our boys spent last Sunday evening here and if you had heard them you would not think they were going for the lust for adventure. They were in deadly earnest.
My heart sickens over it all. But that is the woman's part to bear and endure and 'tarry by the goods' at home while the men go to war.
I doubt if there will ever come a day when they 'will study war no more,' Isaiah's beautiful dream to the contrary notwithstanding. As you say there seems an instinctive love of war in human nature. Perhaps it was implanted for some wise purpose. 'Without shedding of blood can be no remission of sins.' Suffering must be good for a nation if it is good for an individual. High ideals must be occasionally fertilized by blood. Whether shed in a good or a bad cause the sacrifice is the same and must produce a harvest.

「『行く者はまだずっと幸せ
残していく者たちに比べれば』(*1)

あなたからの手紙には本気でおっしゃっているとは信じられない一文がありました。きっと残酷な冗談に決まっています。 あなたは『これは商業戦争なのだから、カナダ人の血を一滴たりとも流す価値などない』とおっしゃいます。よもや、よもやあなたはこの戦争の重要な意味を見落とすなんてことはないでしょうね。 --- これは死をかけた闘いなのです。自由と暴政の、現代と中世的観念の、(「中世」のスペルが正しくないでしょう。正しく書けたためしがないのです。)民主主義と軍国主義の。 これは未だかつて英国が遂行する戦争の中でもっとも正義にかなったものであって、カナダ人の血に値すると信じています。もし私の息子が従軍できる年齢だったら、私は「お行きなさい」と言うでしょう、たとえ心が張り裂けてしまったとしても。もし彼が戦場で倒れることがあっても、幾百万の若者がそうであったように、彼の血は私たちの全てが何らかの形で信じている「遥かなる神聖な出来事」(*2)へと至る道程をしっかりとつなぎ合わせることでしょう!
これでやっとすっきりしました!昨年の7月にあなたの手紙を受け取って以来、押さえ続けていた怒りがフツフツと沸いてきて、それがいつ爆発するかと落ち着かない気持ちでいましたから。これで私の心は穏やかさを取り戻すことでしょう!
もしかしたら、少年たちの中には「冒険」気分で戦争に出かけていくものもあったかもしれませんね、戦争の最初の数週間は。だとしても、そう長くは続かないはずです。尋常ならざる精神が若者たちを包んでいるように思います。私たちの家庭を脅そうとしている見るも恐ろしい脅威を防ぐために出征すること、それが彼等に課せられた義務であることを自覚して赴くのです。先週の日曜の晩、二人の少年たちと過ごしましたが、その時の彼らの言葉をあなたも聞くことができれば、彼らが冒険を渇望して出かけるなどとは考えないはずです。彼らは死ぬほど真面目でした。
そのことを思うと心が痛みます。でも、男たちが戦争に行っている間、耐え忍び、家で『荷物のかたわらにとどまる』(*3)ことが女たちの義務なのです。
しかしそれとは逆に、『もはや戦いのことを学ばない』(*4)というイザヤの見た美しい幻が実現する日が果たして到来するのか、私には疑わしく思えます。あなたがおっしゃるように、人間には戦争を好む本能があるように見えるからです。もしかしたら、そのような本能は何か賢い目的のために植え付けられているのかもしれません。『血を流すことなしに、罪のゆるしはありえない』(*5) 苦しみは個々人にとって良いものであるなら国家にとっても良いもののはずです。高い理想は時に血によって肥やされるのです。 良い理由で流されるにせよ悪い理由で流されるにせよ、犠牲であることに変わりはないのですから、収穫をもたらさねばなりません。」

(『ウェーバー宛書簡』p.61-62 水野暢子訳)

(*1)エドワード・ポラックの詩 'The Parting Hour'からの引用
(*2)「遠くに在る神の事象」とは、ウィーバーが大好きなテニスンの詩の言葉とのこと。モンゴメリは、これを引用することによりウィーバーの心の琴線に触れようとしている、と注釈にあります。
(*3)サミュエル記上30章24節からの引用
(*4)イザヤ書2章4節およびミカ書4章3節からの引用
(*5)ヘブライ人への手紙9章22節からの引用

このようなモンゴメリの主張はやや強い調子ではあるものの、

「ウォルターもジェムも、自分自身をさしだすだけでいいのよ。でもわたしたちは、ウォルターとジェムをさしださなくてはならないんですもの。」
(『リラ』p.224)

といった、『リラ』でメレディス牧師やギルバート夫妻、ノーマンやスーザンが議論したり、リラがじっと耐えながら戦時下の日常で話していたものと同じであり、苦痛の面持ちが伝わってくるものでした。

そして私は、『ウィーバー宛書簡』の前書きにとても興味深い一文を見つけました。

'Won't you write a story that will make me the man I want to be?'(私がなりたいと思う像を、話に描いてくれませんか)

これは文通が始まった頃、ウィーバーがモンゴメリに書き送った文面とのこと。
ウィーバーがモンゴメリ宛に書いた文面が残っていたんですね!
1902年から続く文通で、第一次世界大戦に際して明らかな意見の相違をみせた二人。。
もしかしたら、ウィーバーの当初の願いを叶えるために描いてみせたものこそ『虹の谷』や『リラ』のウォルターだったのではないでしょうか。
より正確に言うと、ウィーバーの「なりたいと思う像」と、モンゴメリの「なってほしいと思う像」を詩人ルーパート・ブルックのイメージで統合した像がウォルターだったのかも知れません。
ウィーバーのように美を愛し、心にわき上がるものを詩に綴っていた少年ウォルター。そして、戦争の醜さを誰よりも恐れたウォルターが、自らの意志で従軍の道を選んだのは、心の自由を失い詩が書けなくなることを一番恐れたからだったということを表現したかったのではないかと思えます。

そう思った上で、モンゴメリが『虹の谷』を書きはじめるのに先立ってウィーバーに送った手紙を読むと、ある一文が妙に気になり出します。

'I am now at work on a book in which Anne's children figure and then I plan to write one in which her sons go to the front. I intend to occupy these busy hurried years with these harmless pot-boilers.'
(『ウィーバー宛書簡』p.67)


「今、アンの子供たちに焦点をあてた本を書いています。そして、次の本では彼女の息子たちが前線に赴く話を書こうと計画しています。多忙な慌ただしい年月を、これらの害のない、小銭稼ぎのための駄文を書くために費やそうと思っています。」と書かれた1917年11月の手紙に見られる'pot-boiler'という語を指して、モンゴメリは金儲けのためにアン・シリーズを書いたのだ、と評する向きもあるようですが、自ら'pot-boiler'という場合は謙遜というか自虐的なジョークというくらいに受けとめた方が自然と思われるこの表現。
そこにはウィーバーをイメージしたキャラクターを構想しているモンゴメリの意識が見え隠れするように思えるのです。
もう一人の文通相手であるマクミランに対しては、『モンゴメリ書簡集I』を見る限りこの時期には手紙を書いていないようで、『虹の谷』執筆中の1918年4月の手紙でも作品のことには触れていません。1919年2月の手紙で『虹の谷』を書き上げたことを記しているのですが、同じ手紙の中で初めてウィーバーのことを紹介しています。
そして、ウォルターが従軍する話である『リラ』が出版された1921年の10月にウィーバーに宛てた手紙では、

’Read it from the standpoint of a young girl (if you can!) and not from any sophisticated angle or you will not think much of it. ’
(『ウィーバー宛書簡』p.88)


「(これは少女向けの物語ですから)少女の気持ちになって読んでみて下さい(あなたがお出来になるのなら!)。あんまり深読みしないでくださいね。」

とマクミランには書いていないことをわざわざ書いているのを見ても、モンゴメリは戦争を描くにあたって実はウィーバーから多くのインスピレーションを得ていたのではないかと思うのです。

モンゴメリとウィーバーが意見を交わした世界大戦も、1918年の秋に終結を迎えます。
1919年の2月にマクミランに宛てた手紙で、モンゴメリは不思議な体験を綴っています。

「【前略】三月の初め頃に見た夢の中で、ある新聞に《いまわしい三十の日々が近づきつつある》という見出しを見ました。そして、その翌日には、わたしがある瀕死の男の人を抱いている夢を見たのです。その人が、抱き上げていたわたしの腕(かいな)から地面に落ちて死に果てたとき、カイゼルの父親であることがわかりました。わたしの少女時代にはフレデリック皇太子として知っていた人物です。【中略】その後、六月に再び夢を見ました。わたしがフォッシュ司令官に会い、彼がひとこと《十月三日》と言ったという夢です。そのときはほとんど気にもとめませんでした。前にも述べましたように、夢を信じなくなっていたものですから。でも、形勢が一変して、二度目のマルヌ河の奇跡が起こると、それらの夢のことを、再び考えました --- なぜなら、最初に敗北を喫したのがあの皇太子の軍隊だったからです。というわけで、メモ帳を取り出し、三月二十一日から、フォッシュがドイツ軍の側面に攻撃をしかけた日までの日数を数えました。この間の戦況は箸にも棒にもかからぬほど惨めなものでした --- ドイツ軍が大なり小なり前進を続けたわけです。それがきっかり三十日間だったのです。その後の日々はすべて、ドイツ軍の動きを阻止したのですから。あなたはあなたなりにお好きなように解釈なさって結構ですよ!【中略】戦争は終わりました。でも、そのあとに残されたさまざまな問題にはわたしたちのひい孫の代まで悩まされることでしょう。さて、《十月三日》という夢のほうは、どういうことなのでしょうね?まあ、証明するなんてことはとてもできる事柄ではありませんが、次に述べることは信じています。あなたは覚えていますか、十月四日にマクシミリアン皇太子がドイツ帝国議会を前にして、停戦の申し入れをする決定が下されたと宣言したことを。あの宣言は四日に行われたのです。とすると、停戦申し入れの決定は三日になされたと考えるのが、理屈に合っていると思いませんか? 反証が出ない限り、そう信じることにしています。」
(『モンゴメリ書簡集I』p.99-101)

やっぱり『夢の家』の先生のような正夢を見る人だったモンゴメリ。
おまけにこれは九つ目の夢で、これまでの八つについても全て正夢だったと記しています。(『モンゴメリ書簡集I』p.94)
こういう手紙に対して、マクミランはどんな返事を書いたのでしょうか。
ウ~ン、気になる~★
どこかにないもんでしょうか、モンゴメリ宛のマクミラン書簡。
ウィーバーにはこのエピソードを書いてない、っていうのも気になる私☆

というわけで、本当のアンとモンゴメリを知るために、ジグソーパズルのピース集めは続く♪

第5章 モンゴメリのありのままの恋愛

ファンの間で「モンゴメリが生涯ただひとり愛した男」とされている、ハーマンという人物がいます。
「黒髪に、青い瞳、女の子と同じくらい長くつややかなまつげ」をして「二十七歳くらいだが年より若く見え、少年ぽかった」ハーマン。「知性、教養あるいは教育のかけらもない --- 自分の農場や彼がよく行く若者のサークル以外のことには、とんと興味がない」ハーマン。(『モンゴメリ日記(1897~1900)』p.96)
そんなハーマンのことを、既に婚約者のあった24才のモンゴメリは愛してしまったのです。
彼女は1907年4月にマクミランに宛てた手紙にこう書いています。

「大げさに言えば、命をかけた恋でした。でも、いいですか --- 私はその方を尊敬していませんでした --- 賞賛の念なんて全然持ち合わせていなかったのです。こんなことがある前には、人が尊敬しない男性を愛することができたなどとは、考えただけでも、一笑に付していたでしょう。」

「でも、確かに愛したのです。どんなことがあっても、その人とは結婚しなかったでしょう。あらゆる点でわたしよりも劣っていたのです。【中略】この人は亡くなってしまい、わたしとしてはこの恋がそういう結末を迎えたことについて感謝しています。もし生きていたら、おそらく結婚しないではいられなかったでしょうし、そんなことになったらほとんどあらゆる点で悲惨きわまりないことになっていたでしょう。」


「愛は全く別もので、それは最良のものを置き去りにして、最悪のものに走るということがいかにも起こりえるのです。まあ、なんてややこしい話題なんでしょう。考えているうちに頭がくらくらしてきました。愛は気質の違いによって大いに異なるとわたしも思います。わたしにとって真実であることが、違った気質の女性には全く偽りであるかもしれないのです。でも、わたし自身経験したことは、人生の奇妙で複雑な出来事の多くを理解する方法を教えてくれました。」

(『モンゴメリ書簡集I』p.33~35)

1907年9月には、やはりマクミランに

「『二人の人間を引き付けあう力を生み出すのは何でしょうか』というあなたの質問に関しては --- そうですねぇ、残念ですけれど、そのことについてはわたしも口ごもるばかりです。それは肉体的な --- 性的な吸引力でしかない、と言う人たちもいます。わたしはこの意見が正しいなどとは思いません。あなたもおっしゃっているように、それでは同性同士の場合が問題になりますから。【中略】大ざっぱに言って、女性同士、男性同士の間では、似ていることが引かれる原因であり、男性と女性の間では似ていないことがその原因だと思います。」
(『モンゴメリ書簡集I』p.38~39)

なんて書いてるモンゴメリ。
私の手元には『誕生日事典』という、ホロスコープとたくさんの人物の伝記調査に基づいて誕生日ごとのパーソナリティを整理した本があるのですが、この本でモンゴメリの誕生日「11月30日」生まれの項を引くと、この日生まれの人は

「子供っぽい面があり、気取りのない提案や申し出に、かえって心を動かされることがあるようです。世の中のあらゆる脅しや巧妙な理屈には頑固に抵抗しますが、あけっぴろげな正直さにはころりといくでしょう。」
(『誕生日事典』p.746 角川書店)

のだそうなんです。
モンゴメリにとっては、ハーマンの「知性、教養あるいは教育のかけらもない」態度が、あるいは教養のなさを恥じることなくアプローチしてくる姿が、「あけっぴろげな正直さ」や「気取りのない申し出」と映って魅入られてしまったのかもしれません。

ところで、『アンの夢の家』に出てきたレスリーが、作家志望のジャーナリストと結ばれたことは既に書きました。
そして1921年に出版された『アンの娘リラ』では、レスリーの長男ケネスがリラの想い人として登場するのですが、成長したケネスの仕草や行いにどことなくハーマンを彷佛とさせるものを感じるのは私だけでしょうか。
無口なケネスがリラを誘う時に口にする言葉は、一見ぶっきらぼうそのものですが、作家の父の血を感じさせる何かがそこには含まれているようで、その点がハーマンよりもずっと粋な、モンゴメリ好みの像になっていると思われます。
無邪気な美少女リラが、戦争が終わって大人の女性に成長し、想い人だったケネスと結ばれるお話を描いたのは、モンゴメリの心の昇華のひとつだったのかもしれません。

さて、そんなモンゴメリは1924年に、『エミリー』三部作の二作目となる『エミリーはのぼる』の執筆に気が乗らなかったのは世間がありのままの少女を描くことを許さないからだ、とマクミランとウィーバーに対してほとんど同じ文面で愚痴っています。

「二月に『エミリー』物の二作目を書き終えました。--- でも、もちろん、出版されるのは来年のことです。
以前のように一日に二時間だけ執筆するというのではなく、三時間にしたおかげで、仕事も順調に進み、何年もの間悩まされてきたあの不快な息切れ感もなくなりつつあります。
もちろん第二『エミリー』(まだ題名はついていません)の出来具合いは『可愛いエミリー』の半分にも及びません。
シリーズものの第二作目は、とりわけ少女を扱うときはいつものことなのですが、どうにも思うように筆が運ばないのです --- 一般の人々にせよ出版社にせよ、わたしが少女をありのままに描くことは許してくれないでしょうから。
子供たちをありのままに描くことはかまわないのです --- ですから、子供たちを描いたわたしの本はいつもおもしろいわけです。
でも、《若い未婚女性》のことを書くということになると、かわいいけれども、おもしろ味のない少女----というか、はっきり言って、比較的大きくなった子供で、その上、人生のイロハも、それに対応する姿勢も全然知らない娘 --- を描かねばならないのです。
恋愛はほのめかす程度であっても望ましくないのです --- でも、少女たちには、生き生きとした恋愛事件のひとつやふたつはつきものなのです。
エミリーのようなタイプの少女なら、間違いなくそうなのです。なのに、一般大衆というのは ---
ヴァンダービルト家のある人物は、かつて、こう言ったことがあります ---『全く一般大衆ってのは』。
わたしは、ただ、ヴァンダービルト家のある人物が言ったことを言っているだけですよ。
わたし自身がそう言っているのではありません。
わたしには一般の人々を非難することはできません。
まだしばらくの間、その人たちの気に入るようにしなくてはならないのです。」

(1924年『モンゴメリ書簡集I』p.143~144)

モンゴメリのいう「少女」とは、10代後半くらいを指すのでしょうか?
それとも「若い未婚女性」と言っているところから、20代前半くらいまでの女性でしょうか。
《若い未婚女性》に当たる箇所は、ウィーバー宛の手紙には 'flapper' と記されていました(『ウィーバー宛書簡』p.118)。
意味を調べてみたところ、「1920年代の新しい女性の潮流。礼儀正しい振る舞いをこばかにする。たばこを吸い、強い酒を飲む。念入りに化粧し、短い丈のスカートをはき、髪をボブ(ショート)にしてジャズを聴く女性」とあります。このイメージはティーンエイジャーっぽくないし、仮にそうだとしても二十歳にかなり近い感じがあります。
でも、最近のコギャルと大差ない特徴のようにも見えますから、『エミリーはのぼる』のエミリーの年齢設定である14~17歳でも有りと言えば有りかも・・・とも思えますが、やっぱり 'flapper' というのはモンゴメリ流の大げさな表現のような気がします。
本当に 'flapper' を描くつもりだったとしても、それは異性を意識し始める頃にちょっと危ない行動をとったりする思春期の少女についての不易な真実を、エミリー自身にそういう振る舞いをさせるかどうかはともかくとして 'flapper' という流行を通じて描きたかったのではないかと思われます。
しかし、そんな自分の願いが一般大衆に受け入れられないと嘆くモンゴメリ。
そんな不満を抱きつつ書かれたエミリーですが、それでもアンよりも作者の実像に近いと評されているようです。
アンとエミリーそれぞれの少女像に果たして違いはあるのでしょうか。
そして、どちらの方がモンゴメリに近いのでしょうか。

アンの場合は『愛情』でギルバートが死にそうになったのをきっかけに、自分の気持ちに気付いたのが22才の頃。
そして3年後の25才(とはいえ当時としてはかなり遅めらしいですが)で結婚するのですが、出会ってからの10年の間はギルバートがどんなに友達以上の視線を送っても、アンは拒み続けています。
では、エミリーのティーンエイジはといえば、多少は老成(ませ)ているように描かれています。
例えば『エミリーはのぼる』のなかで、16才くらいのエミリーたち男女の一行が嵐のなかで空き家に避難するエピソードがそうです。

「一度エミリーは目をあげテディが不思議な表情で自分を見つめているのに気がついた。一秒間二人の目は合った、そして釘づけにされた --- ただの一秒間 --- けれどエミリーは二度と彼女だけのものではなくなった。彼女は何が起こったのかと戸惑って考えた。彼女の身も魂も包んでしまうように思えた、あの想像したこともない幸福感の波はどこから来たのだろう? 彼女はおののいた --- 彼女は恐れた。目の回るような変化への可能性がひらけるように見えた。混乱した思想の中から出て来たたった一つのはっきりした考えは、彼女がテディといっしょにこのようにして火の前に全生涯の毎晩すわりたいということであった --- それだったら暴風雨歓迎だ。彼女はテディを再び見られなかった、けれども彼の近さを感じる甘い感覚に戦慄をおぼえた。彼女はテディのまっくろな髪の毛、少年らしい剛直さ、艶を持った濃い青い目を強く意識した。」
(『エミリーはのぼる』p.393-394 村岡花子訳 新潮文庫)

とはいえ、エミリーはそのすぐ後には「まばゆいばかりの小説の構想」しか考えられなくなり、「テディと恋をしたことも忘れ」「創作の喜び」という「不滅の酒に陶酔し」て、一睡もすることなくその夜を過ごします。
このあたりの展開が、ありのままの少女を描かせてもらえていないところなのでしょうか。
でも、テディの容姿を見て下さい。彼の「まっくろな髪の毛、少年らしい剛直さ、艶を持った濃い青い目」は、モンゴメリがかつて恋に落ちた「黒髪に、青い瞳、女の子と同じくらい長くつややかなまつげ」をして「二十七歳くらいだが年より若く見え、少年ぽかった」ハーマンを彷佛とさせるじゃありませんか。
自分が成人した後での恋愛を16、7才のエミリーに無理して体験させたんじゃあ・・・そう思った私は、同じ年頃のモンゴメリがどんな少女だったのか知りたくなって、その頃の日記を図書館で借りて来て読んでみました。

モンゴメリが16才の7月に書いた日記にこんな記述があります。

「今夜ソファーにすわっているとき、ウィルから指輪を返してもらった。でも明日『永久』にあげると約束した。ウィルはまた私の巻毛をひと房欲しいと言った。断るふりをしたけれど、考えを変えるかもしれない。
滑稽でしょう? これが将来何か特別な関係に発展するのかしら? いいえ、もちろんそんなことはないわ。私たちはただいい友だちでいるだけ。これまで会った男の子のうちでウィルがいちばん好きだけど、愛していないことはわかっている。彼はちょうど兄弟か、愉快な仲間のようだ。」

(『モンゴメリ日記』桂宥子訳 p.159)

好意を寄せるボーイフレンドがいて、確かにちょっと大胆な行動もとっていて、でも「兄弟か、愉快な仲間のよう」って書いています。
ウ~ン、これってアンとギルバートの関係と似てませんか?
『友情』や『愛情』でギルバートがどんなに友達以上の視線を送っても、アンに拒まれ続けていた描写と同じニュアンスじゃないでしょうか。
やっぱりモンゴメリって、自分で思ってる以上にアン似の乙女だったのではないのかなぁ。
とここでふと、とあるBBSに書き込まれていた女子高生の言葉を思い出した私。
レオナルド・ディカプリオ主演の映画『タイタニック』に感動した女子高生は、確かにこう言っていたのです。

「でも、主人公たちが演じる愛の表現シーンはなくてもよかったんじゃないかなと思っています。 なまじ全体の印象が美しかっただけに、あの場面にとてつもなく違和感を感じてしまったのですよ。」

16~7歳の頃って結構こんな感じなのかもしれませんよね。
まだ恋愛に憧れていたくて、具体的なものは特に欲していない純な年頃・・・。

モンゴメリがアンとエミリーのどちらにより近いのか、そもそもアンとエミリーの違いはどれほどのものなのか、私にはよく分かりません。
モンゴメリ自身は、ウィーバーから 'Of course Emily is another Anne.' (エミリーは当然もう一人のアンですよね。)と書かれた手紙を貰って、'Well, she may be but if so I have entirely failed in my attempt to "get her across" to my readers.' (そうなってしまったかもしれませんが、それはうまく表現できなかった私の失敗です。)と答えています。(『ウィーバー宛書簡』p.114-115)
しかし、エミリーの設定をアンとは異なるものとして置いた(つもり)にも関わらず、全体として同じような人物像として動いたということから見ても、この二人に共通する部分にこそモンゴメリという女性の本質が表現されているように感じる私です。

というわけで、本当のアンとモンゴメリを知るために、ジグソーパズルのピース集めは続く♪

第6章 モンゴメリの求めたもの

モンゴメリが『エミリー』三部作で描いた、「生まれつき物を書きたいと思う気持ちにかりたてられている少女」は、11歳の時に父を亡くし、くじ引きで(!)親戚のおばさんの家に引き取られます。
そこで友達と出会い、ディーン・プリーストという旅人やカーペンター先生といった、ひとまわりもふた周りも年の離れた同類に導かれて詩を綴り始める・・・。

こうして改めて読んでみると、縁もゆかりもない年配の兄妹にひきとられ、教師、そして母親になっていくアンと比べて、両親を亡くしたエミリーが親戚の家に預けられ、やがて作家を目指すようになるというプロットは、よりモンゴメリ自身の境遇に近いものと言えるでしょう。
ただし「エミリー」三部作には、アン・シリーズよりも空想の砂糖衣が余すところなくふんだんにかけられているようにも思われます。

もしも、お父さんの最期を看取れたなら!
もしも、周りに年の離れた師がいてくれたなら!
そしてもしも、幼なじみの男の子が自分と同じように芸術家肌だったなら!

モンゴメリのかなわなかった夢がそのまま、物語にもり込まれているように感じるのです。

さて、当初は結婚するつもりはないと言っていたエミリーも、結局好きな人と結婚するという点にアンとエミリーの共通項があります。
エミリーの想い人テディに、モンゴメリが24歳の時恋に落ちたハーマンという青年の容姿を与えたことは前章で書きました。
では、アンの結婚相手ギルバートの場合は、どうだったでしょうか。
以前、文通相手のウィーバーとギルバートの間には共通点があるのでは、と書きました。
しかしそれ以上に、ギルバートにはモンゴメリの幼なじみのウィルという男の子が入っているようです。
ウィル(ウィリー・プリチャード)との出会いは、モンゴメリが16歳の時。
再婚した父親と暮らしはじめたプリンス・アルバートの地で知り合ったクラスメートでした。

「新しい生徒が入って来た --- ウィリー・プリチャード。赤毛で緑の目、ゆがんだ口!と言うと魅力的には聞こえない。たしかにウィリーはハンサムではない --- でも素敵。ウィリーといると、とてもおもしろい。」
(『モンゴメリ日記1889~1892』桂訳 p.115)

「際立って赤い髪」「その瞳は、光線や気分によって、緑色にも灰色にも見えるようだ。」(『赤毛のアン』松本訳 p.23)というアンの特徴と、「歪んだ口元には、人をからかうような笑いが浮かんでいた。」(『アン』松本訳 p.171)というギルバートの特徴を合わせ持つ、重要人物ウィル!

このウィルについては、16歳のモンゴメリが「兄弟か、愉快な仲間のよう」と日記に記していたことから、アンとギルバートの関係に似ているのでは?ということも既に書きました。
結局モンゴメリは義母との折り合いが悪く、再びプリンス・エドワード島に戻ってくるのですが、その後ウィルとの文通は6年間続いたようです。
そしてモンゴメリが22歳の時に、ウィルはインフルエンザにかかって死んでしまい、モンゴメリが「永久にあげると約束した」指輪が遺品として送られてきます。

「これまで知り合った男性を思い返すと、ウィルよりいい同志はいなかったと思う --- ええ、ハーマンでさえもかなわない。私はウィルに決して恋はしなかった。でも、これまでに知っている中でいちばん素敵な男の子だと思った --- 今でもそう思っている。私たちの友情は完璧だった。【中略】読んで討論した本の数々、それからともに経験した無数のささいな出来事。私はウィルの死をはじめて知ったときよりも、今の方がもっと彼との友情を失ったことを残念に思う --- なぜなら、今の方がもっとはっきりとそのほんとうの価値がわかるから。でも、もし彼が生きていて、再会することがあっても、友情はもはやありえないだろうということもわかっている。彼の友情は愛をフィナーレとする男女の友情であったかもしれない。しかし、昔の同志的な友情はもはや不可能だろう。」
(『モンゴメリ日記1897~1900』桂訳 p.175~176)

モンゴメリがこの日記を書いたのは25才の秋。
24才になる年の秋に出会いそして冬に別れたハーマンが、インフルエンザの合併症で亡くなったことを彼女が新聞で知ったのは25才の夏ですから、モンゴメリは「命をかけた恋」の余韻が冷めやらぬ中で、この日記を書いたのでしょう。
「命をかけた恋」とは別の、あるいはより深い想いとともに思い出されるウィル。
もしもあの時生還していてくれたなら・・・という思いが、アンとギルバートが結ばれるストーリーの下敷きになったのかもしれません。

ところで、「エミリー」というニューヒロインで試みようとした「若い未婚女性のありのままの恋愛」がうまく描けなかったことについて、モンゴメリは後に、次のようにウィーバーに語っています。

' I can't write a young-girl -- romantic -- love story. My impish sense of humor always spoils everything. '
(1926年7月『ウィーバー宛書簡』p.134)


「若い女の子のロマンティックな恋愛話は私には書けません。私の中のユーモアの小悪魔が、いつもすべてを台無しにしちゃうんですから。」(水野暢子訳)

確かに、ユーモア満載なところを抜きにしたらモンゴメリの魅力は半減してしまうかも。
でも本当にそれだけが書けない理由だったのでしょうか。
ここで、モンゴメリがウィーバーへ送った1924年の手紙の中に、『エミリー』の執筆に関して次のようなことを書いていることが気になります。

' One of your comments amused me --- when you said that the only thing you thought a little overdrawn was Mr. Carpenter's method of teaching history! It amused me because that was the only thing in the book wholly drawn from life!! I have noticed so often that when I sketch an incident or character baldly from life my critics invariably consider it overdrawn. Why?
There must be some psychology behind this. Other writers tell me they have had the same experience. Is it because life itself is a crude and imperfect and inconsistent thing compared with our ideas of it. Does even truth have to have a veil of illusion to make it true? '

(『ウィーバー宛書簡』p.115)

「あなたがおっしゃった、カーペンター先生の歴史の授業風景が唯一少しばかり大げさだというご意見、あれは面白いですね!
なぜって、あそこがあの本の中では本当にあった出来事をそのまま描いた、唯一の部分だったからです!!
それにしても、私が現実に起こった出来事や人物をそのまま描くと、きまって大げさだと批評されるのはなぜなんでしょう?
きっと心理学的な何かがあるのでしょうね。他の作家たちも同じような経験をしていると言っていますし。
もしかしてありのままの現実というのは、私たちが抱く観念と比べると毒々しくて不完全で矛盾が多いということなのでしょうか。
真実でさえ、幻想というベールを被せなければ本当らしく見えないのでしょうか?」

(水野暢子 訳)

学校の先生をしていたウィーバーに、カーペンター先生の歴史の授業がちょっと大げさではと指摘され、「現実をそのまま描くと、大げさだと批評されることが多いのはなぜ?」「真実でさえ、幻想というベールで覆わないと本物にならないの?」と面白がるモンゴメリ。
彼女が興味を示している「心理学的な何か」は抽象化と具象化という人間の営みの本質に関わるテーマですが、研究者ではない彼女にとっては作家としての生涯を通じて、自分の筆で挑みつづけたテーマであったのだろうと思われます。

前章で書いたように、若い未婚女性のありのままの恋愛を描けないのは「一般大衆」のせい、と二人の文通相手に愚痴っていたモンゴメリですが、ウィーバーとの文通の初期にすでに次のようなやり取りを交わしているのを見つけました。

' As early as 1908, when Weber argued that in Anne of Green Gables Anne's academic success was '" a litle too good for the literary good of the story,"' Montgomery offered a similar argument to Weber: 'I can't afford -- yet, at least -- to defy too openly the standards of my public' (Montgomery, GGL69,73). '
(『ウィーバー宛書簡』の注釈部分より p.118)

「1908年の始め、ウィーバーが『赤毛のアン』でアンが修める学問的成功は『物語の文学的な出来ばえと比べて、少しばかり出来過ぎのきらいがある』と論じたのに対し、モンゴメリも同様に『今はまだ私には、世間の求める基準をあけっぴろげに否定することはできません。』と応えています。」
(水野暢子 訳)

モンゴメリの日記や手紙の訳書にたびたび出てくる、「大衆」あるいは「一般大衆」という言葉。これは "public" という語を訳したものですが、この訳語ではモンゴメリの気持ちが乗っかっていないようでしっくりきません。私は「世間」とか「世間さま」と訳してみましたが、どうでしょうか?
さて、モンゴメリが楽しんで執筆したと言う『赤毛のアン』でさえ、すでに世間を意識したものだったというのは、私にとってとても納得のいく発見です。なにしろ私の『アン』の第一印象も、ウィーバーと同様「ちょっと出来過ぎ」だったのですから。
私が小学校高学年の時、読書好きの親友に勧められて読み出した『赤毛のアン』とそのシリーズ。
当時は、パディントンシリーズやリンドグレーンの『やかまし村』など軽め(?)のもの、椋鳩十やシートンの動物記ものを好んで読んでいた私にとって、村岡花子さんという訳者さんが手掛けられたアン・シリーズの、白と紫の妙に大人っぽい装丁と字が小さいのに分厚い本の印象に、かなり気がひけたのを憶えています。
それでも勧めてくれた友達の手前、とりあえず一通り読みはしたものの、おしゃべりで勝ち気な主人公の思い込みワールド全開な内容には、ハッキリ言ってちょっとウンザリ。一巻目で挫折しそうになりました。
だって、屋根の棟から落ちちゃうわ、でも足を挫いたくらいで助かるわ、急病の子の命を助けて都合良く失敗を許してもらえるわ、詩の独唱も大成功しちゃうわ、内気なマシューおじさんが買ってきたドレスがなんだかとっても素敵だわぁ・・・なんてエピソードの数々は、いかにも「ラッキーとハッピーを満載してます」って感じじゃないですか。
特にギルバートの頭に石盤を叩き付けたページなんて、読んだ時ウワッ★って退(ひ)いちゃいました。それって確か、TVドラマの『大草原の小さな家』でローラやメアリーが使ってたアレでしょう!? 打ち所悪ければ死んでたと思う、ギルバート★


そんなアンの短気さや高慢さが、利発であることの裏返しということは追々分かってはきたものの、ただそれだけの女の子だったら、私はあのお話世界に夢中になることはなかったろうと思います。 
私に『アンの青春』以降のアン・シリーズを手に取らせたのは、『アン』で描かれた彼女の気性や能力への興味や共感ではなく、周りの世界を切り取る感性への憧れでした。

緑の切り妻屋根の家。
その二階の窓から見える桜の木と果樹園。 
そしてその先に広がる誰もいない森と、その向こうにある親友の家の窓の灯。

ウ~ン、どんなだろう~♪
自分の周りの小さな世界しか知らない私は、見たこともないはずの風景を、デジャウ゛のような感覚とともに思い描いていました。
なにかにつけ怒っているマリラおばさんとそれを取りなすマシューおじさんの兄妹にも、どこか惹かれる懐かしさがありました。
ラストちかくで、銀行の倒産の報にマシューが心臓発作を起こして死んでしまうあっけなさは、銀行にお金を貯めていたんだという驚きとあいまって、そのリアルさに感服でした・・・。

何をどう書くと多くの人々にとって大げさでなく、うまく行き過ぎでない物語となるのか、他の作家たちと同様に工夫を重ね続けたであろうモンゴメリ。
彼女は1909年にマクミランに宛てた手紙でこんな風に書いています。

「わたしには三つの文体がある、とあなたはおっしゃっていましたが、おそらくその通りだと思います。でも、『アン』の文体はわたしの地の文体です。他のふたつは《作り上げ》られた特定の物語にあわせて、外観に巧妙な装いをこらしているだけです。『アン』はわたし自身の文体で書き上げました。彼女が受け入れられた秘密は、それだと思います。」
(『モンゴメリ書簡集I』p.53)

しかしその4年後の1913年には、

「わたしは、今、三冊目の『アン』ブックに取りかかるために、頭のネジを巻いているところです。この本を書くのは出版社と読者を満足させるためで、わたし自身が満足するためではありません。これに取りかかるのはとても気が重いのです。『アン』の世界に戻るのは、とても難しい気がします --- 何年も前に着た洋服を身に着けるようなもので、その洋服が未だにどんなに美しいとしても、その後わたしが成長しているので、もう小さくなって着られなくなっているばかりか、流行遅れになっているのが分かるような代物なのです。とはいうのの、わたし自身の平安を得るために、この仕事に取りかかることになるでしょう。わたしが恐れているのは、今後とも、一般読者がわたしの文体だと思いこんでいる文体を否応なしに保持してゆかなければならないのではないかということです。彼等は変化を大目に見ようとはしないでしょう。でも、わたしは違ったタイプの本を書いてみたいのです。いつの日か、きっとそうするつもりです --- 一般読者の好みを気にしないですむだけのお金ができた暁には。」
(『モンゴメリ書簡集I』p.80-81)

とマクミランに書き送ってもいます。
何かに合わせるのではなく、自分の欲するままに、より良く変わっていきたいと願う彼女の率直な気持ちはとても良く理解できます。
正直なところ、私もシリーズ2作目はあまり面白いとは思いません。
読者にあわせたつもりでも、気持ちが乗らない中で書かれた文章は、結局のところ読者には響かないということなのかもしれません。

しかし、『アン』により世に出てしばらくの間、作家としてのスタンスの取り方に思い悩んだこの時期のモンゴメリが、モンゴメリの全てではないはずです。
このような時期を経た後、様々な変化を通じてやがては自らの中の不易なものにたどり着いていく、というのはモンゴメリならずとも多くの人々が経験することだと思います。
にもかかわらず最近の日本では、とりわけアン・シリーズ初期の頃のモンゴメリに注目して、アン・シリーズ全体についてマイナスイメージで語られる傾向があることは、以前指摘したとおりです。
そもそも素人の私がこのような文章を書き始めるきっかけになった、モンゴメリ研究の大御所お二人のご意見について、ここで改めて触れておこうと思います。

出版社に急かされて執筆しなければならなかった二冊目の『アンの青春』について、カナダ在住の梶原由佳さんは自著で次のように述べています。

「前作とは比べものにならないほどの難産となった。大衆には受けるかもしれないけれど、文学作品としての質は落ちると自認し、仕上げた数カ月後の一九〇八年九月には、『もし、残りの人生がアンという' 暴走する馬車(チャリオット)'に引きずられてゆく運命だとしたら、アンを創造したことを痛烈に後悔するでしょう。』とペンフレンドに書き送っている。皮肉なことに、こう書いたとおりにモードの人生は、アンの存在に良くも悪くも一生つきあっていくことになる。」
(『「赤毛のアン」を書きたくなかったモンゴメリ』p.19~20)

『もし、残りの人生がアンという'暴走する馬車'に引きずられてゆく運命だとしたら、アンを創造したことを痛烈に後悔するでしょう。』という箇所は、梶原さんの本のキャッチコピーとして使われました。
この「1908年にウィーバー宛に書かれた手紙」文の真意を確かめたくて、別の本を注文してしまった私★
でも、「暴走する馬車」って「チャリオット」のことだったんですね。
チャリオットといえば、イギリス映画『Chariot of Fire』!
私だったら「炎の二輪戦車」とでも訳したいなぁ♪
ローズマリー・サトクリフが描くブリテン・ケルトのお話にたびたび登場する、逞しい筋肉が躍動する馬に牽かれ、炎に包まれながら敵陣に突っ込んでいく勇ましい二輪戦車です。
スコットランドを心の故郷としていたモンゴメリにとって、チャリオットはそう悪いイメージではなかったはず。
良くも悪くも、読者の期待という鞭で猛烈に駆けていくチャリオットを生み出したのだ、という自尊心が見えかくれするこの一文も、売れっ子作家になったモンゴメリのなかの「ユーモアの小悪魔」が書かせた謙遜の表現だったのではないでしょうか。
先に引いた1909年のマクミラン宛の手紙に「『アン』はわたし自身の文体で書き上げました。彼女が受け入れられた秘密は、それだと思います。」と記しているのですから。
そもそもモンゴメリが「馬車」という時には「buggy」とか「carriage」という言葉を用いてますしね♪
ちなみに、マシューがアンを駅に迎えにいく時乗っていたのはbuggy!

もう一人の大御所、作家の松本侑子さんは、

「『私は書きたくもないアン・シリーズを出版社と読者のためにいやいや書いている。本当はもっと価値のある大人むけの文学を書きたいのに』というジレンマだった。」
(『誰も知らない「赤毛のアン」』p.153)


「モンゴメリは、彼女が侮蔑する『一般大衆』に気に入られようと、少女の描き方を手加減している。そうした創作態度は、モンゴメリの言う『一般大衆』をあざむく前に、まず彼女自身をあざむいている。それはやがて、自分が心からもとめる文学世界の創造をあきらめ、商業的な妥協、そして自分への失望と嫌悪へとつながっていく。」
(同 p.177~178)

と自著に書いています。
また、彼女が訳した『赤毛のアン』の「訳者あとがき」では、

「二冊目の『アンの青春』以降、作品の筋書きはともかく、アン自身の魅力は大きく損なわれていく。常識的で、協調的で、妙におとなしい。恋愛においても優柔不断ではっきりしない。」
(『赤毛のアン』訳者あとがき p.530)

とか、『赤毛のアン』を訳したことで、

「私の役目も終わりに近づいた。【中略】私は、しばらく遠ざかっていた私自身の小説の世界へ帰っていこうと思う。」(同 p.532)

とも書いています。
『赤毛のアン』以外の作品は全て『一般大衆』、いえ "public"(世間)におもねて書かれたものであるとする松本さんにとって、文学作品として認められるのは『赤毛のアン』だけで、それ以外のアン・シリーズはとるに足らないものという評価なのでしょう。
でも、モンゴメリ自身がウィーバーに対して記しているように、『赤毛のアン』もいわゆる "public"(世間)を意識して書かれたもののようですが、松本さん的にはどうなんでしょう、そこのところは?
その後、再びご自身の小説の世界からモンゴメリの世界に戻られて、続々とアン・シリーズを訳し始めておいでなのを拝見するたびに、「自分が心からもとめる文学世界の創造をあきらめ、商業的な妥協、そして自分への失望と嫌悪へとつながって」いきはしないかと、他人事ながら心配になってしまいます。

おっと、私のなかの皮肉屋の小悪魔が騒ぎ出しました。
いったん筆を置いて、本当のアンとモンゴメリを知るための、ジグソーパズルのピース集めに戻ります♪

第7章 モンゴメリに見えたまぼろし

『天の子よ、不死を受け継ぐ者よ。いかにして汝は、これよりのちいずこの星より、この蟻のごとき人々の群れ集う処を、その激動の数々を、振り返り見るのであろうか・・・・・。ホーッ! 若きカルデア人よ、数えきれぬほどの歳月を重ねし若者よ、喜びにも美にも心動かされずに、望楼に黙して立ち、星降る夜の静寂が汝に死をまぬかれる最後の秘密をささやくのを耳にしたときと変わらぬ若者よ、汝はついに死を恐れたのか?』

これは、モンゴメリが文通相手のマクミラン宛の手紙に引用した、『ザノーニ』からの一文です。
モリー・ギレン女史により初めて書かれたモンゴメリの伝記『運命の紡ぎ車』によると、モンゴメリは幼い頃に初めて読んだ『ザノーニ』を、何度目かに読み返したときの印象を、

「以前と変わらぬ不思議な喜び---ロマンス・霊感・暗示・魔法---に満ちていました。」

と、マクミランに伝えているとのこと。(モリー・ギレン著『運命の紡ぎ車』 p.206)
モンゴメリの住んでいた神秘的世界には距離を置きたがっている様子のギレン女史ですが、遠慮がち(?)に紹介するモンゴメリの手紙文からは彼女がいかに『ザノーニ』という小説に魅了されていたかが伝わってきます。
(マクミラン宛の手紙を編纂した『モンゴメリ書簡集I』では、この箇所はどうやら省略されているようです。)

『ザノーニ』・・・どんな物語なんでしょう?
知りたくなった私は、とりあえずネットで検索してみました。すると、あらすじを紹介してくれているページを発見♪(http://homepage1.nifty.com/pdo/linkzanoni.htm)
作者は、英国の作家であり政治家でもあったエドワード・ジョージ・ブルワー・リットン(Edward George Bulwer-Lytto, 1803-73)。
ん? どこかで聞いたことがあるような、ないような。
などと思いつつあらすじを読み進むと・・・うわっ!
このお話の主人公って、まるでディーン・プリーストみたい!!

『エミリー』三部作に出てくる、別名ジャーバック(せむしの意)・プリースト。
世界中を旅してはエミリーの前に現れる、謎めいた年上の男性・・・。
『エミリー』の登場人物のなかでもひときわ異彩を放つ彼は、多くの読者には単なる「不気味なおじさん」(?)と受け止められているようですが、私にはなんとも不思議な魅力を感じさせる、そして『エミリー』の物語の中で最も重要な役回りを与えられている人物に映るのです。
しかし、その人物像を語るに相応しい言葉を見つけられない、物語を通してでないと伝わらない、まさに霧の中におぼろげに浮かぶ(mistily)なぞの人物(mystery man)としか言い様がない、そう思っていました。
でも、「若きカルデア人よ、数えきれぬほどの歳月を重ねし若者よ、喜びにも美にも心動かされずに、望楼に黙して立ち、星降る夜の静寂が汝に死をまぬかれる最後の秘密をささやくのを耳にしたときと変わらぬ若者よ」というモンゴメリの引用箇所は、まさに私のディーン・プリースト像そのもの!
おまけにディーン・プリーストは Dean Priest と綴りますが、カルデア人の綴りは Chaldean!
Dean=首席司祭とPriest=聖職者という意味を二重に折り込むだけでなく、Chaldean=占星家というイメージを表す音まで重ねているとは!
さすがはモンゴメリ、センスありますね♪

さて、エミリーの父親と同級生という記述があるとはいえ、実際のところは年齢不詳の怪人にしかみえないディーン・プリースト。
そんな彼の神秘的なイメージの原型は、ブルワ・リットンの描いた『ザノーニ』にあったのではないでしょうか。
モンゴメリの自伝的作品の主人公が、謎めいた年齢不詳の男性と交流する話にも、これでなんとなく納得がいった私。
世間からは神秘主義者とカテゴライズされるブルワ・リットンの物語に、モンゴメリは生涯にわたり憧れを抱きつづけたようですから。
で、改めて驚いちゃうのがモンゴメリの不思議な嗅覚!

「恐ろしい金色の竜が巻き付いている中国の急須 --- 五本の爪のある竜で、物知りが見れば、これが帝政時代の王宮で用いられたものであることはわかる。それは義和団事件の獲物の一つで夏の王宮で用いられたものであるとディーンは話した。 けれどもどうしてそれが手に入ったかは話さなかった。『いまはまだ。いずれ話すよ。ぼくがこの家に入れたものについては一つずつ物語があるよ」
(『エミリーの求めるもの』村岡花子訳 p.113~114)

モンゴメリは、ディーン・プリーストの集めた宝の一つとして、「義和団事件にまつわる急須」を描いているのですが、その義和団事件(1900年)の30年後に、渤海をへだてた隣接の地で起きたのが満州事変で、その調査にあたったリットン調査団の団長は・・・ヴィクター・リットン! 
そう、お察しの通り、ブルワ・リットンの孫なんだそうです。(wikipedia 「エドワード・ジョージ・ブルワー・リットン」の項 参照)
もちろんそんな繋がりがあることを、『エミリー』三部作執筆当時(1922~1927)のモンゴメリは知る由もありません・・・。

さて、『ザノーニ』に満ちているロマンス・霊感・暗示・魔法に喜びを感じるモンゴメリは、彼女自身の作品の中でも様々な不思議なエピソードを綴っています。
例えばエミリー・シリーズの三冊目『エミリーの求めるもの』で、ロンドンの駅でチケットを買おうとしているテディ(エミリーの想い人)の前に、エミリーの幻が突然現れてテディの手をひき、結局テディはリバプールから出る船に乗れないのですが、その後でその船は、氷山にぶつかって沈没してしまうというエピソードが出てきます。
まるで映画『タイタニック』のネガフィルムを見るようではありませんか。
確か、ゲームに勝って乗船チケットをゲットしたレオナルド・ディカプリオ演ずるジャックは才能溢れる画家で、主人公ローズの裸婦像を描いていました。
そしてエミリーのテディも将来有望な肖像画家なんですよね。
ひょっとしてキャメロン監督、『エミリー』のファン!? 
エミリー・シリーズだけでなく、アン・シリーズでもこのような不思議なエピソードがいろいろ出てきます。
そして、モンゴメリ自身も戦争についての正夢を見ていたことはすでに触れましたが、彼女はその他にも不思議な出来事をたびたび経験しています。

1920年に、長男が目にけがをして麻酔の使われる検査が必要になった際、不安にかられたモンゴメリは「今ここにフリード(亡くなったモンゴメリの親友)がいてくれさえしたら」と願います。
その時ふと、死後も「人格が不滅だってことをはっきりと知りた」くなり「もしあなた(フリード)がここにいるのなら、ダフがわたしのところにやってきて、キスするようにしてちょうだい。」と部屋に入ってきてドアの横に座っていた猫のダフィーに「張り詰めたささやき声で言いました」
すると、一度もそんなことをしたことのないダフィーが「厳かな足どりで部屋を横切り」やってきて、2度も彼女にキスをしたと、マクミランに書き送っています。
(『モンゴメリ書簡集I』p.122~123)

1922年には、やはりマクミランに宛てた手紙で「白昼夢」の話を書いています。
それは、夫のユーアンやモンゴメリの母親の姉のアニーおばさん、マクミラン、そして今は亡き親友のフリードなどモンゴメリの「同類」たちが、森の中で大騒ぎしながらキャンプしているという幻想です。(『モンゴメリ書簡集I』p.132~134)
しかし、そこには同類の一人であるはずのウィーバーは出てきません。
マクミランにはこの時点で既に、ウィーバーとの文通について伝えてあるので、マクミランに遠慮して手紙に書かなかったわけではないでしょう。(『モンゴメリ書簡集I』p.118)
この時のモンゴメリはまだ、ウィーバーとは対面したことがなかったためにイメージを持てなかった、ただそれだけのことかもしれません。
しかし先の猫のダフィーの不思議体験にしても、この白昼夢にしても、あるいはアニーおばさんが亡くなる直前に経験した神秘体験(これはどのようなものなのか、残念ながら『モンゴメリ書簡集I』には載っていませんでした)についても、そして戦争終結の際に見た正夢についてもウィーバーには話していないようなのです。
こういった類いの話は、なぜかマクミランにしか語っていないモンゴメリ。
・・・気になります。
千里眼を持つ者についての言い伝えがあるというスコットランド。
そんな場所に住むマクミランにしか、このような体験はわかってもらえないと思ったからでしょうか。

見えないはずのものが見え、感じられないはずのものを感じることができたモンゴメリは、第一次世界大戦が終わり平和が戻った世界を待つ未来が、決して明るいものではないことを正しく把握していました。
1919年2月の手紙の中で、

「ボルシェビキについてどうお思いですか?どのように名付けようともかまいませんが、ある恐ろしい不安感が世界中に広がっています。合衆国にしても、蓋で覆われていますが、その下は不安で沸き返っているのです。御存知でしょうか --- 世界はしばらくの間 --- 二十年か三十年の間 --- スランプ状態に陥るだろうと思います。恐ろしい緊張のあとで、しばらくの間力が抜けてへなへなになってしまう人物そっくりになるでしょう。」
(『モンゴメリ書簡集I』p.103)

と記しているように、『赤毛のアン』で私を魅了した「周りの世界を切り取る感性」は、彼女に現実世界の近未来の深刻な、そして正確なイメージを見せてしまっていたのです。
より正しくいえば、彼女の予感は誤っていました。
彼女が恐れた、自由を抑圧する悪意が支配する社会は、20年か30年どころか70年以上もの長い間世界を蝕み続け、未だに世界から取り除かれてはいないのですから。

「世界はひっくり返っています。われわれが大事にしてきたさまざまの信仰信条も伝統もすべて見捨てられています。赤色ロシアの影が、すべての上におおいかぶさっています。」
(1933年『モンゴメリ書簡集I』p.197~198)

とマクミランに宛てて書いた1933年には、ウィーバーに対しても

' Those tales of Scottish rural life have oddly the same flavor as the Cavendish of my childhood, the memory of which is like a silvery moonlight in my recollections. 
The atmosphere was the same, the background very similar. 
And as I read the books I went back --- back --- back to a world where there were no Reds or static or war-debts or Hitlers.
I read recently a statement to the effect that a man or woman who was born about 1830 and died in 1913 would have lived his whole life in what was the happiest period of the world's entire history to date. 
True! 
I have often felt a certain envy of the women of my mother's and grandmother's generation. 
They lived their lives in a practically unchanged and apparently changeless world. 
Nothing was questioned --- religion --- politics --- society --- all nicely mapped out and arranged and organized. '

(『ウィーバー宛書簡』p.205)

「スコットランドの田舎暮しを描いたそれらのお話には、不思議なほど、キャベンディッシュで過ごした子供時代の銀の月光のような思い出の香りがするのです。
漂う空気感が同じで、背景もとても似ています。
そして読んでいる間は、共産主義や雑音、戦争債務、ヒットラーのいない昔の世界へと戻るのです。
私は最近、次のような趣旨の文章を読みました。
つまり、1830年前後に生まれ1913年に亡くなった者は男であれ女であれ、歴史が始まって以来最も幸せな時期にその生涯を過ごしたであろうと。
その通りです!
私はしばしば、母や祖母の世代の女性たちをとても羨ましく感じるのです。
彼女たちは、ほとんど変化しない、見たところ何の変化もない世界に生きていました。
何事も問われることなく、宗教も、政治も、社会もすべてがきちんと計画され、整えられ、組織だてられていました。」

(水野暢子 訳)

と書き送っています。
出来ることなら祖母たちの生きた古き良き時代に戻りたいと願った58歳のモンゴメリは、女性たちの生き方にも迷いのなかった一昔前が羨ましいと綴っています。
そして、ナチスだけでなく共産ロシアという暗雲までが色濃く漂い始めた不安の中で、モンゴメリが最後の力を振り絞って書き上げたのはアン・シリーズでした。

というわけで、本当のアンとモンゴメリを知るために、ジグソーパズルのピース集めは続く♪

第8章 モンゴメリの旅路の果て

モンゴメリが没する6年前の1936年に出版された7作目のタイトルは『Anne of Windy Willows(風そよぐ柳荘のアン)』。
『アンの幸福』と邦題がつけられたこの物語の舞台はプリンスエドワード島のサマーサイドという町です。
アンが22~25歳の3年間を過ごす場所にサマーサイドという実在の地名をあてたのは、誰の人生にも訪れる美しい季節のかたわら、という意味も込めたかったからでしょうか。
アンのギルバートへの恋文という形式で綴られたこのお話。
モンゴメリというジグソーパズルのピースをあれやこれやと集めるなかで、あらためて読み返してみた私ですが、いつの間にかマクミランやウィーバーへの手紙を読んでいる錯覚に陥ってしまい困りました。

『幸福』は、アンの下宿先の柳風荘、サマーサイドの町を牛耳るプリングル一族の長老婦人二人の住む楓(かえで)屋敷、アンが校長を勤める中学校、そして柳風荘のお隣にある常盤木(ときわぎ)荘など、様々な昔ながらの建物を舞台に多様な人物たちが老いも若きも、アンとの日常の交流を通じてそれぞれの精神の自由に目覚めていくというお話です。
中でも常盤木荘の囚われの少女・エリザベスが、父親と再会して幸せになるというストーリーには、エリザベスがアンと同じ誕生日という設定からも、作者自身の幼少の心をアンを通じて解き放ちたかった思いが感じられます。
いずれにしろ、一筋縄ではいかないリアルな人間模様を縦糸に、モンゴメリ一流のユーモアを横糸にして小粋に織り成された『幸福』というタペストリーには、世の中そんなに捨てたもんじゃない、という気分が溢れていますが、そこに漂う空気はモンゴメリの祖母の時代のものなのかもしれません。

そして、モンゴメリが最後に仕上げた作品もやはりアンでした。
アン・シリーズ8作目の『Anne of Ingleside(炉辺荘のアン)』が出版されたのは1939年。
『リラ』のタイトルにも使われていた「Ingleside」という言葉は、「炉辺」のことですが、転じて「家庭」という意味もあるそうです。
両親と早くに離別するという寂しい幼少期を過ごしたモンゴメリ。
だからでしょうか。
その生涯の最後に描いた物語は、村医者の妻であるアンが悩んだり迷ったりしながら子供たちを育む「普通」の家族の風景でした。
愛し合う両親の揃う家庭にも起こる「事件」の数々。
ひとつひとつは小さく見えても、家族にとってはかけがえのないドラマであることを『炉辺荘』の物語は語りかけます。
このお話にふんだんに登場する「スーザンの手作りお菓子」は、モンゴメリが忙しい仕事の合間をぬって実際に子供たちに作ってあげたものでしょうか♪
そういえば私が高校生だった遠い昔、再現レシピを見つけた親友に誘われて作ってみちゃった「お猿の顔のクッキー」。
あの真っ黒焦げの味も忘れられない・・・。

母親であるとともに有名な作家でもあったモンゴメリ。

「1923年の冬、英国王立芸術院がわたしを《会員》に選んだということは、もうお知らせしましたかしら? 
従ってわたしには、もしそうしたいと思えば、署名のあとにF・R・S・A(英国王立芸術院会員)と書く権利があるわけです! 
大変な敬意の表現だと思います。
カナダの女性でこの栄誉を授けられたのはわたしが最初なのです。
男性会員は何人かおりますが。かなりこっけいでもあり、少なからずうんざりしたことでもあるのですが、そのためにカナダの何人かの作家たちが嫉妬の念を抱いたのです。
その栄誉はだれか他の人に与えられてしかるべきだった、と思っているようでした!
まあ、わたしとしましては、そのことにほんのちょぴりは満足いたしました。
でも、何と言っても、先日、下の息子のスチュアートが、厳かな口調で次のように言ってくれた時に感じたような満足の半分ほども感じさせてはくれませんでした。--- 『もしぼくがもう一度生まれてくるとしたら、お母さんがやっぱりぼくのお母さんになるんだったらいいな。』本当にかわいいことを言ってくれたものですね!?
スチュアートはいつもわたしどもを笑わせています。
先日の夜、座っていたかと思うと、いかにもまじめな顔つきをし、突然大きなため息をついてこう言うのです。--- 『ああ、お母さん、ぼくがおとなで、結婚していて、すっかりカタがついてるんだったらいいのになあ』」

(1924年『モンゴメリ書簡集I』p.136~137)

マクミランに宛てて書かれたこの手紙には、文学的な名誉よりも子供たちからの愛の言葉を喜びとする49歳の母親の姿があります。
この手紙には出てきていない長男・チェスターとは、成人してからは折り合いが悪く苦しんだといわれていますから、そのあたりの思いを『炉辺荘』を書くことで昇華させたかった、という面もあるのかもしれません。
それはちょうどモンゴメリの次男ヒュー・アレグザンダーを、『愛情』の執筆にとりかかる直前の夏に死産したことへの無念を、続く『夢の家』で「夜明けと共に生まれた」アンの長女ジョイスの「小さな魂」が「日の入り時に」この世を去ってしまった悲しみの情景で昇華させたように・・・。

このように、モンゴメリ自身の家族への思いが重なって見える『炉辺荘』ですが、私的にどうしても気になるのは「Ingleside」と「England」の最初の発音が同じであること。
ウィーバーに宛てて書いている手紙に、

' You might not even like them, Since you no 'scotch' in your veins and have never heard the 'Doric' talked. 
I think Mrs. W. would feel more at home with them. I love them! They leave such a good taste in my mouth. '

(1933年7月『ウィーバー宛書簡』p.205)

「あなたにはあまりピンとこないかもしれません、だってあなたには『スコッチ』の血が流れていませんし、『ドリック』(スコットランドの方言)を聞いたこともないはずですから。奥様なら懐かしく感じられるのではないでしょうか。私は大好きなんです! それを口にした後に残る甘美な味わいといったら。」
(水野暢子 訳)

と書いているところから察すると、モンゴメリはアンが子供たちを育む家の名に、自分の源流である英国のかたわらという意味も込めたとも思われます。
いかにも詩的なタイトルではありませんか!

伝記作家や研究者によって、今ではすっかり「アン・シリーズにうんざりしていた」と信じられているモンゴメリ。
それでは何故、死の数年前に描いた物語が一旦書き終えたはずのアン・シリーズだったのか? 
何故、シリーズの途中となる4巻目と6巻目に位置づける『幸福』と『炉辺荘』を後から書き足したのか?
という私の当初の疑問も、自ずと答えが出たように思います。

「わたしは『アン』シリーズの新作 --- 『風そよぐポプラ荘のアン』!!(邦題『幸福』) --- を書き終えて、出版社に渡したところです。
出版社のほうがぜひともそれを書いてほしいといってきていたのです。 --- 例の映画が放映されたあとですので、商売的に絶好の企画と考えたわけです。
というわけで、いやでいやで仕方がなかったのですが、承知しました。
最初は『アン』シリーズの世界に《引き返す》ことなどとてもできないと思いました。
もう別世界であるように思われたのです。
でも、いったんその仕事に突入してみると、世界が発狂する以前のあの黄金時代に引き返す道をまるで本当に発見したかのように、それが可能であると思いはじめた --- いえむしろ、それを楽しみ始めた --- のでした。
『島のアン』(邦題『愛情』)と『アンの夢の家』にはさまれた三年間、つまりサマーサイドで教師生活を送るアンの物語を書きました。
たとえ部分的にせよ、当時の気風・雰囲気をうまく思い出すことができたかどうか分かりません。
この点に関するあなたのご意見を、首を長くして待っております。
この本は今秋出版されることになっています。わたしはこの作品を五か月間で書きました --- 『赤毛のアン』を書いてからというもの絶えてなかった離れ業です。
もちろん、現在は以前よりも執筆時間を多く持てますが、それにしても息のつく間もないほどの苦行でした。
これで十九冊目というわけです!!」

(1936年3月『モンゴメリ書簡集I』p.218)

「九月一日に新作の執筆に取りかかり、大晦日に完成しました。
『炉辺荘のアン』という作品です。
その通り、またまた『アン』シリーズの一冊です。
不承不承だったのですが、執筆を請い続ける出版社に応じたというわけ。
でも、アン・ブックスを書くのは利益になるようです。
ハリウッドのRKO社が、ほんの二、三日前に、『風そよぐ柳荘のアン』(幸福)の上映権を買ったのです。
これはうれしい刺激でした。
その上、RKO社は『アンの夢の家』のオプションをほしがっています。
『風そよぐ柳荘のアン』(アメリカ版は『風そよぐポプラ荘のアン』)です)をどんなふうに映画にするつもりなのか想像もつきません。
この作品は、一連の相互につながりのない話を、アンを縦糸にしてつなぎ合わせたものなのですから。
でも、多分原作にはない話をたっぷりとでっち上げて注入するのでしょうね。
『炉辺荘のアン』は実のところアンよりもアンの子供たちを扱ったものですので、『アン』シリーズの他の作品には《及ばない》と思います。」

(1939年3月『モンゴメリ書簡集I』p.241)

出版社に乞われて仕方なく執筆した、というのはきっかけとしては事実なのでしょう。
しかし本当に書きたくなかったのなら、書くべき理由が感じられなかったのなら、断ることもできたでしょう。
モンゴメリはこの時すでに、イギリスからは勲章を授与され、フランスからも芸術院会員に選ばる、カナダを代表する作家でした。
儲けたがる出版社の期待に応えて書いた、というのは彼女一流の謙遜であって、「世界が発狂する以前のあの黄金時代に引き返す道」を楽しみながら書いたというのが本当のところだったのではないでしょうか。
確かに1929年の大恐慌の後、モンゴメリは資産的な苦境に見舞われていたことが想像されますが、最期の二作品の執筆の原動力は経済的なものというより、やはり作家が求め続けた「不滅の真理」への挑戦だったと思います。

「九月一日に新作の執筆に取りかかり、大みそかに完成し」たという『炉辺荘』。
前回の『幸福』を「五か月で書きました --- 『赤毛のアン』を書いてからというもの絶えてなかった離れわざです。」と書いているところを見ると、『炉辺荘』はモンゴメリの執筆最短記録かも!?
モンゴメリは『炉辺荘』を執筆し始めた1938年9月前後の状況について、1939年の3月に次のようにマクミランに書き送っています。

「八月になると、二年以上の長きにわたる苦々しい心配の種が突然に、しかも思いがけなく取り除かれました。もちろん、わたしの回復にとっては大助かりでした。眠ることも --- 食べることも --- 仕事をすることもできるようになったのです。ああ、ふたたび仕事をして --- しかもそれを楽しむことができるって、なんて仕合わせなことでしょう!」
(『モンゴメリ書簡集I』p.236)

ここで書かれている、「二年以上の長きにわたる苦々しい心配の種」とはどんなものかは、手許の資料からはわかりません。しかし、それが取り除かれたことで溢れ出すイメージの勢いそのままに、一気に描けた作品なのだと思うのです。
一方、『幸福』を書きはじめる前年の1934年には、モンゴメリはウィーバーへの手紙に' Hill Road '坂を登る道)という詩を綴っていました。

' Come away from gentle valleys of forgetfulness and sleep,
To the magic of the pineland, tang of the untrodden steep,
Where the wild and lovely winds of God from crags to crags may leap. 

Ah, 'tis hard and steep for climbing, this austere, disdainful hill -
Ay, but think ye of the rapture immemorial that will thrill
On its crest our hungry, seeking souls, as rains the streamlets fill.

Valley dwellers never know it - never know the faint and far
Pinnacles of azure lifting, lifting to the evening star,
Never know the lofty pastures where the flocks of heaven are.

And when we have reached the summit shall we find surcease of time,
Some fair city never made with hands unchanging and sublimeω 
Nay, if God be good to us we'll find another hill to climb. '
(『ウィーバー宛書簡』p.215)

怠惰な眠りに満ちた穏やかな谷から抜け出て、
誰も知らない険しい松林、その香りに満ちた不思議な斜面に足を踏み入れると、
そこは神の激しくも愛に満ちた風が岩から岩へと吹きわたる場所。

あぁ、厳しく見下ろすこの山の、登るにはつらく険しいことよ
だが、太古の昔から我を忘れて登った者たちを思えばこの心は震える
小川を満たす雨粒のごとく、そこへ至ることを渇望した魂があの頂きを満たしているのだ。

谷に住む人々は知るべくもなし - その目眩のする遠い道の先にある
宵の明星に届かんばかりの空色の高き峰を、
天上に住む人々が群れをなす遥かなる牧場を。

山頂に立ったとき、そこでは時の流れが止まり、
荘厳で変わることのない、あり得ぬほど麗しい都市が見えるのだろうか?
否、神の慈悲あらば、われらはそこにまた登るべき山を見い出すであろう。


(水野暢子 訳)

モンゴメリはこの自作の詩について ' the philosophy I've always lived by, '私が寄って立つ信条)であると紹介しています。
彼女にとって創作は、一つ一つが山頂への険しくも大切な道のりでした。そして、その信条を綴った詩を友に書き送ったのは、遥か彼方へと連なる嶺々の頂のひとつが目の前に迫っている、という感覚の中に彼女がいたからなのかもしれません。つまり、「アンの幸福」はモンゴメリの幸福そのものだったのだと私には思えるのです。

ところで、先ほど「『炉辺荘』はモンゴメリの執筆最短記録かも」と書きましたが、翻訳家の掛川さんが『夢の家』の訳者あとがきで「シリーズのなかで、いちばん短期間で書き上げています」と指摘されているのは、アン・シリーズの中でも私の一番のお気に入りの『アンの夢の家』。
たしかにモンゴメリの日記を詳しく読むと、『夢の家』を1916年の6月16日に執筆し始め、10月5日に完成させていることがわかります。
モンゴメリはこの作品を、なんと3か月半で書き上げているのです。おまけにその物語を描き終えた当時、

' Myself, I think the book is the best I have ever written not even excepting Green Gables or my own favorite "The Story Girl." But will the dear public think so? '(Selected Journals of L.M. Montgomery Volume II: 1910-1921 p.222)

「『赤毛のアン』や自分でも気に入っている『ストーリーガール』と比べても一番の自信作」(水野暢子 訳)

とも評しています。
しかし、驚くなかれ!
モンゴメリの最後の日記(Selected Journals of L.M. Montgomery Volume V: 1935-1942)には、


◎『幸福』は1935年8月12日~11月25日の3ヶ月少々で書かれ、1936年の1月27日に校正が終わっている。
◎『炉辺荘』は1938年9月12日~12月8日の3ヶ月弱で書かれ、1939年の1月16日に校正が終わっている。

ということが書かれているのです。
つまり、『幸福』は3ヶ月少々で脱稿し5ヶ月少々で校了、『炉辺荘』は3ヶ月弱で脱稿し4ヶ月少々で校了していることになります。このページの始めに紹介したマクミランへ宛てた手紙で、『幸福』を「5ヶ月間で書いた」と記していたのは、校正の期間を含めてのことだったようです。

また、『炉辺荘』を「九月一日に新作の執筆に取りかかり、大晦日に完成した」と書いていたのも、マクミランに対してキリの良い期間として表現されたものと思われます。


掛川さんが最も短い期間で書かれたとしている『夢の家』は、1916年6月16日~10月5日の3ヶ月半少々で書かれ、1916年11月24日までの5ヶ月少々で校了しています。
それに比べ、『炉辺荘』は校正期間も含めてみても一ヶ月も短い期間で描いた作品ということになります。
『夢の家』の前後の物語として、後年になって補完するように綴った『幸福』と『炉辺荘』。
彼女の現実の時間では20年もの時を隔てながら、アンの結婚の前後の物語を驚くべき早さと満足感を持って仕上げたモンゴメリ。
彼女が、アンの人生を通して描き出したいと願ったものは何か、自ずと判ろうというものです。

さて、モンゴメリの最後の日記を読み進めて驚いたのは、『幸福』や『炉辺荘』へのモンゴメリの想いが、私の想像以上であったこと。


' I finished Anne of Windy Willows today. I have enjoyed writing it. I think I recaptured the old atmosphere reasonably well but that is one of the things a writer cannot judge for herself. ' (Nov.25, 1935)

「今日、『幸福』を書き終えました。楽しみながら書きました。あの頃の空気をかなりうまく捕まえていると思いますが、その点は、作家が自分でジャッジできないことの一つでもあります。」(水野暢子訳)


' I have been reading over the MS. of Windy Willows and find it better than I had thought it. ' (Dec.3, 1935)

「『幸福』の完成稿を読み返してみて、思った以上によく出来ていると思います。」(水野暢子訳)


' On this hot dark muggy day I sat me down and began to write Anne of Ingleside. It is a year and nine months since I wrote a single line of creative work. But I can still write. I wrote a chapter. A burden rolled from my spirit. And I was suddenly back in my own world with all my dear Avonlea and Glen folks again. It was like going home. But my eyes bothered me a good deal while writing. ' (Sept.12, 1938)

「こんな薄暗くて蒸し暑い日に、私は座って『炉辺荘』を書き始めました。1年と9ヶ月ぶりに創作に値する1文を書いた訳です。でも私はまだ書けるようです。一章を書きました。心の重荷が取り除かれました。そして私はすぐさま再び、愛するアヴォンリーとグレンの人々のいる私自身の世界へと戻りました。まるで家に戻ったように。でも私の両目は、書いている間中、私を悩ませました。」(水野暢子訳)


' Wrote another chapter today and hated to stop. It is heavenly to be able to lose myself again in my work. ' (Sep.13, 1938)

「今日もうひとつの章を書き上げ、そのまま書き続けていたいと心から思いました。再び仕事に没頭できるなんて天にいるような心地がします。」(水野暢子訳)

' I had another letter today from a woman who had just read Windy Poplars. She said in conclusion "Thank you for the simple charm of people, humor and quaintness---for a wisp of fairyland---for the scarlet, purple and blue!"
When dreariness and fear threaten to overwhelm me I shall remember this letter and say to myself, "Take heart my child. As long as you can bring a little delight or comfort into the lives of others life is worth living. And there are countless lives waiting for you yet in the years of eternity and in stars yet unborn." ' 
(Sep.24, 1938)

「今日はまた別の、アンの幸福を読み終わったばかりの婦人から手紙をいただきました。彼女は末尾で『人々の素朴な魅力やユーモア、そして古風で趣のある世界をありがとう---それは妖精の国の一束のようでした---深紅と薄紫と青色の!』と言っていました。
侘しさと恐れに圧倒されそうになる時、私はこの手紙を思い出して、自分にこう言ってやるつもりです。『元気を出しなさい。他の人々の人生に喜びや慰めを少しでも運び込むことが出来る限り、あなたは生きる価値があるのです。そして永遠なる時の中、いまだ生まれえぬ者たちや、いまだ生まれ得ぬ星々の、数えきれない命たちがあなたを待っているのです。』」
(水野暢子訳)


' I have about half of Anne of Ingleside written. Some days I enjoy writing it---other days I am just draggy enough. ' (Oct.17,1938)

「『炉辺荘』の約半分を書き上げました。書くことが楽しい日もあり---ずるずると重たく感じられる日もあり。」(水野暢子訳)


' I finished Anne of Ingleside today---my twenty-first book. I always wonder now if I will ever write another one.  There are lots I want to write---but I am getting a little tired. I love to write still---I will always love it. But--- ' (Dec.8, 1938)

「『炉辺荘』を書き上げました---私の21冊目の本。また別のを書くことがあるのかしらといつも思います。書きたいことはたくさんあるのです---でも、私は少し疲れやすくなりました。書くことをまだ愛しています---これからもそうでしょう。でも---。」(水野暢子訳)


なにより私が嬉しかったのは、モンゴメリの最後の住処である「旅路の果て」に『アンの夢の家』の表紙絵が飾られていたことです。("The Selected Journals of L.M. Montgomery" VOLUME V: 1935-1942 p. 14)
出版社から届けられた初版本を手にしたモンゴメリは、その表紙絵を評して「25才のアンが17歳の娘のように若く描かれ過ぎている」と言っていました("The Selected Journals of L.M. Montgomery" VOLUME II: 1910-1921 p. 222)が、その表紙絵の原画をずっと大切に飾っていたんですね。
やっぱり『夢の家』は最後まで、彼女の一番のお気に入りだったということではないでしょうか。

ところで、先にモンゴメリの日記(Selected Journals of L.M. Montgomery Volume II: 1910-1921)から引用した


' Myself, I think the book is the best I have ever written not even excepting Green Gables or my own favorite "The Story Girl." But will the dear public think so? '(Selected Journals of L.M. Montgomery Volume II: 1910-1921 p.222)


という箇所のなかでも、私的にツボだったのがこちらの一文。

' But will the dear public think so? '

「でも愛しの世間さまは、そう思ってくれるかしら?」(水野暢子 訳)

松本侑子さんや梶原由佳さんを筆頭とする新解釈派の方々のように、アンは結婚などせず、よしんばしたとしても仕事を止めない「自立した」女性であって欲しいと願う読者には、自分が描きたかった大人のアン像は不評であろうことが、千里眼を持つモンゴメリにはお見通しだったのかも。松本さんのようなファンの方たちこそ、今も昔もモンゴメリが苦手とした「the dear public(愛しの世間さま)」だった、ってことなのかもしれません。

というわけで、本当のアンとモンゴメリを知るためのジグソーパズルのピース集めも、いよいよ佳境に入ります!

第9章 モンゴメリが遺してくれたもの

第二次世界大戦の津波が押し寄せるプリンス・エドワード島の浜辺で、モンゴメリは1939年の9月にマクミラン宛に絵はがきを書いています。

「今晩ここの浜辺にやってきて、いっしょに散歩しませんか。そして、世界に解き放たれた悪夢を一時間なりとも忘れましょう。もう一度同じ目に会わなければならないなんて不公平です。」
(『モンゴメリ書簡集I』p.245)

この後、1940年7月にファンに宛てた手紙もとても興味深いものでした。

「【前略】私の本を楽しんでくれて、うれしく思います。
いいえ、アンは実在しません。
アンは、ほかのすべての登場人物同様、私の想像から生まれたのです。
おそらく、いつかまた、アンの続編を書くかもしれません。
『虹の谷のアン』と『アンの娘リラ』もアン・ブックスだと知っていることと思います。
『銀の森のパット』のシリーズ二冊と『可愛いエミリー』の三部作も読んでみたら気に入ると思いますよ。
『アンの幸福』の映画が、いま上映されているのを知っていますか。
このことでちょっとお願いがあります。
アメリカ、カリフォルニア州ハリウッドのR・K・O社に、『アンの夢の家』と『炉辺荘のアン』をスクリーンで見たいと手紙を出してほしいの。
私の代理人が、両作品をこの会社で映画化させたいと働きかけているので、読者の皆さんからのお便りが助けになると思うのです。
ただ、私から頼まれたとは書かないで下さいね(そう書いた女の子がいたんです)。
腕がとってもふるえてきたのでペンを置かなければ。
アンが実在しないと伝えなければならなくって、ごめんなさい。
でも、もし、アンがあなたにとって本当にいるようなら、それがかんじんなのです。
映画『アンの幸福』のなかのアンは、とても本物のようでした。
私が思い描くとおりのアンです。」

(梶原由佳著『「赤毛のアン」を書きたくなかったモンゴメリ』p.184~185)

晩年のモンゴメリが「おそらく、いつかまた、アンの続編を書くかもしれません。」と言っていたとは!
そして、「『虹の谷』と『リラ』もアン・ブックス(アン・シリーズ)」と言明していたとは!

後者については、松本侑子さんが「モンゴメリ本人がシリーズとして組んだ本は、六冊しかない。」(『誰も知らない「赤毛のアン」p.164』)として、アンの子供たちの物語である上記2冊はシリーズには含まれないと書かれていますが、これも事実誤認ということでしょうか。
前者については、この手紙を紹介している梶原さんは「晩年は経済的に苦しい時期でもあったことから、少女たちにこんな頼みごとをしたのかもしれない。」(『「赤毛のアン」を書きたくなかったモンゴメリ』p.183)と解説されています。
梶原さんの推量の先には、モンゴメリにアンの続編を書かせようとしたのも経済的な動機であった、という解釈が待っていそうです。
しかし、そんな理由、そんな動機からしたためられた手紙ではないと、今では確信する私です。
『アン』がハリウッドのR・K・O社から映画化されたことについては、マクミランにもウィーバーにも喜びの気持ちを素直に表現していたモンゴメリ。

「七回ですって?!わたしは四回しか観ておりません。
ええ、《アン・シャーリー》は、全体として見れば、とてもよかったと思います。
わたしとしましては、どこかしら小妖精のような繊細な魅力を具えた女の子としてアンを描こうとしたのですが、そのへんが多少不足していましたけれど。
彼女の目はすてきでしたし、それに『舟でキャメロットにくだってゆく』場面(『赤毛のアン』第二十八章参照)では、彼女はまさに完璧にアンそのままでした。
新聞評にもかかわらず、わたしは彼女が美人だと思います。
多くの《映画》スターにつきものの甘ったるいかわいらしさは持ち合わせていませんけれど。
彼女とは時折文通しています。
また、トロントの街路を歩いている時に、突然ネオンサインが輝いて《アン・シャーリー 演ずるは・・・》などという文字が浮かぶのを目にすると、何とも言い様がないほど胸がわくわくしてきます。
アンが本当に現実のものになったのだという、奇妙奇天烈な気がするのです。」

(1936年12月『モンゴメリ書簡集I』p.220~221)

モンゴメリは、アン・シリーズの完全映画化を心から望んでいたのだと思います。
脳裏に浮かんだ全感覚的なイメージを言葉で表現する作家にとって、自分が創り出した言葉の世界が他者のなかでどのような全感覚的なイメージへと復元されるのか、ということは大きな関心事であるはずですし、映画はそれを知るためにはうってつけだったに違いありません。
人は、具体的な事象から抽象的なイメージを得つつ、既に抱いている抽象的なイメージを描くために具象的イメージを形作る、という循環のなかで生きているものです。
例えば、私は4章で、『リラ』に登場するアンの息子・ウォルターについて、モンゴメリは文通友達・ウィーバーの「なりたいと思う像」と、彼女がウィーバーに「なってほしいと思う像」を第一次世界大戦で戦死した詩人ルーパート・ブルックのイメージで統合した像だったのかも・・・と述べました。
一方、ウォルターにまつわるエピソードは、モンゴメリ研究家の梶原さんがご自身のHPで示されている通り、1915年にパンチ社が発行する雑誌に掲載されたカナダの従軍医・マクレーの' In Flanders Fields 'という詩がヨーロッパや北米で大流行したという現実の事象をモチーフにしていることも確かなようです。(http://yukazine.com/lmm/j/articles/remembrance.html
モンゴメリがウォルターを通して描きたかった「心の自由」という抽象的なイメージを具象化するために、実際の社会現象をなぞったエピソードを形づくったように思えますし、あるいは' In Flanders Fields 'の流行が、彼女の中の描きたかったものを引き出したとも思えます。
作家であるモンゴメリにとって、自分の作品が他者によって解釈され映像化された時、本当に描き出したかった抽象的イメージが再現されるのか、あるいはそれに与えた外形的なエピソードが表層的に描かれるに留まってしまうのか、ぜひとも確かめてみたかったのではないでしょうか。
モンゴメリは、

「『広がりゆく天空がいやさらに神々しく輝く』時代であれば、そして、『空に輝く星もない夜』のような時代でないならば、同類の知性を具えた人たちが、ぎこちないペンや紙よりももっとすぐれた、もっと完璧な意思伝達手段を獲得するかもしれません。その暁には、手紙の内容を考えるだけですむかもしれませんね。」
(1919年『モンゴメリ書簡集I』)

と1919年にマクミラン宛に予言のようなものを書いています。
「手紙の内容を考えるだけですむ」とまではいかないものの、文字に綴りさえすれば瞬時に届ける手段を獲得した現代は、モンゴメリ言うところの『広がりゆく天空がいやさらに神々しく輝く』時代に近づいているのでしょうか。
それとも、『空に輝く星もない夜』のような時代に近づいているのでしょうか。
そして、モンゴメリの言うようにイメージそのものを共有できる日はくるのでしょうか・・・。

モンゴメリはいつでも、現実への絶望を創造の世界へと昇華させることで精神のバランスを保った作家でした。
夫の精神的病い、親友の死、共産主義とナチスによる戦争の影、大恐慌による不況、そして長男との不和という後半生の暗闇の中でも、より一層の光を求めたモンゴメリが手にした果実がアン・シリーズの最後の二作品、『幸福』と『炉辺荘』だったのでしょう。
しかし、激化する一方の戦争のニュースや、唯一の救いである次男が徴兵されてしまうという現実を前にした年老いたモンゴメリは、1940年の後半に不注意から手を痛めてペンを握ることができなくなったことをきっかけに、何よりも大切な創作への意欲を失ってしまうのです。

かつて若い時分にウィーバーに書き送った「Go!」と言える母親の気概は、もう残されていませんでした。
モンゴメリは自身の神経衰弱の治療を諦め、1942年の4月24日にその67年の生涯を終えたと伝えられています。

「親しい友よ
お見舞いの品をありがとうございました。
具合は良くありませんし、良くなることもないでしょう。
でも、わたしたちの長年の友情を神に感謝しています。
たぶん、もっと幸福な別の世界に生まれかわったときに、再びこの友情のつづきを持てるでしょう。
この一年間は絶え間のない打撃の連続でした。
長男は生活をめちゃくちゃにし、その上、妻は彼のもとを去りました。
夫の神経の状態は、わたしよりももっとひどいのです。
わたしは夫の発作がどういう性質のものか、二十年以上もあなたに知らせないできました。
でも、とうとうわたしは押しつぶされてしまいました。
今年は、あなたに送る本を選びに外に出かけることはできませんでした。
皮下注射していただかなかったら、この手紙を書くことさえ無理だったのです。
あれやこれやのことに加えて、戦況がこうでは、命が縮んでしまいます。
もうすぐ次男は兵隊にとられるでしょう。
ですから、わたしは元気になろうという努力をいっさいあきらめました。
生きる目的がなくなるのですから。
神があなたを祝福し、この先長きにわたってあなたをお守り下さいますように。
わたしは、今まで、あなたの友情とお手紙ほど大切にしてきたものはほとんどありません。
かつてのわたしを覚えていて下さい。
そして、今のわたしは忘れて下さい。


真心をこめて 
おそらくこの手紙が最後のものとなるでしょう
L.M. マクドナルド」

(1941年12月23日『モンゴメリ書簡集I』p.252~253)

このマクミランへの最後の手紙から改めて思い起こされるのは、モンゴメリが文通の最初の頃、1904年11月にマクミランに送った手紙の一文です。

「わたしは《恋人の小径》を通り抜けました --- 娘らしい愛らしさをたたえた、六月の《恋人の小径》ではなく、つらい涙を流しては齢を重ね、賞賛という衣をまとうように悲しみで全身をおおった婦人の美しさを持つ《恋人の小径》を。」
(『モンゴメリ書簡集I』p.9)

モンゴメリは、かつて予感した通り「悲しみで全身をおおった婦人の美しさ」でその生涯を閉じたのではないかと思われてなりません。
梶原さんの著書によると、「モンゴメリがマクミラン氏に宛てた八十通余りの手紙の束は、運のよいことにトランクに入れられたままのこっていた」(『「赤毛のアン」を書きたくなかったモンゴメリ』p.220)そうですが、マクミランはモンゴメリを「同類」として誰よりも理解していたからこそ、彼女からの手紙の束を公表せず、そっと旅鞄の中にしまったのではないでしょうか。

その後モンゴメリは、1941年12月26日にウィーバーへ次のような最後の手紙をしたためています。

' My dear friends: --
A hypo enables me to hold a pen for a few moments. 
Thanks for your book. 
I will read it if I ever am able to read again. 
I am no better and have had so many blows this year I am quite hopeless. 
I hope you are both well. 
My husband is very miserable.
I tried to keep the secret of his melancholic attacks for twenty years as people do not want a minister who is known to have such
but the burden broke me at last, as well as other things. 
And now the war. 
I do not think I will ever be well again.
I wish you a 1942 as good as can be hoped for.


Yours sincerely,
L.M. Macdonald '

(1941年12月『ウィーバー宛書簡』p.263)

「親愛なる友へ
皮下注射で少しの間ペンをとることができます。

本を送っていただきありがとうございます。
また再び読めるようになったら、読もうと思います。
私の具合はよくありませんし、この一年は打撃の連続で絶望的な状態です。
お二人ともお元気のことと思います。
主人の状態はとても悪いです。
私はこの二十年というもの、主人の躁鬱の症状を秘密にするよう努めてきました。
牧師がそのような病を持つことを人々は望まないでしょうから。
でも、その他もろもろの災厄と共に、ついに私は力尽きてしまいました。
そして戦争です。
私の病が良くなることはもうないでしょう。
1942年が、あなたがたにとって良い年でありますようにお祈りしています。


敬具
L.M. マクドナルド」

(水野暢子 訳)

マクミランと比べてやや簡潔な印象ではありますが、気の置けない友への愛情が感じられるウィーバーへのラストレター。
その簡潔さのためか、ウィーバーはそれが最後の手紙になるとは思っていなかったようで、たまたまつけたラジオのニュースがモンゴメリの死を報ずるのを聞いて驚いたと記しています。(1941年12月『ウィーバー宛書簡』の注釈p.263)
かつてウィーバーに、

' I sincerely hope our exchange of letters will last for another twenty five years. 
Then you can write - if anyone wants to read it! -
on "A Half Century of Correspondence with an old lady of the Last Century."' 

(1926年7月『ウィーバー宛書簡』p.136)

「あと四半世紀も文通が続くといいですね。
そしたら『前世紀の老女との半世紀に渡る交流』というタイトルの本を書いてもいいですよ、読みたい人がいればの話ですけどね!」

(水野暢子 訳)

なんて冗談を言っていたモンゴメリ。
彼女の中に棲む「ユーモアの小悪魔」のいたずら相手にされたのは、詩的なマクミランよりも生真面目なウィーバーだったのかも・・・と思う私ですが、最後の手紙に小悪魔が現れていないことを一番寂しがったのもウィーバーだったのかもしれません。

大きな悲しみに押しつぶされたモンゴメリが、その波乱に満ちた生涯を閉じたのは、マクミランとウィーバーそれぞれに告別の手紙を認(したた)めた4か月後のことでした。

さて、学問の世界でもようやくモンゴメリの文学的真価が問われ始めたようです。
カナダのモンゴメリ研究機関の公式サイトでは、「L.M.モンゴメリの作品評価の変遷」という項目で、「批評家やその意見に影響された読者によってますます少女向けの作品であると見なされるようになりました。」という過去のいきさつや、 「モンゴメリの学問的評価と本格的な研究が世論に追いつくにはもう少し時間が必要でしょうが」などという風に記されています。
(参照: http://lmm.confederationcentre.com/japanese/covers/collecting-7-1.html

一方、日本では『赤毛のアン』の新訳を手掛けた松本さんの、

「モンゴメリは、アンを性的客体として鑑賞しようとする視線を激しく拒絶して書いた。実際、彼女は友人に宛てた手紙に書いている。少女の恋愛を書くことは世間が許さないのだと。」
「モンゴメリは明るい少女を描きはしたが、大人の女の真実、率直な心理や肉体の動き、欲望、不満を描いていない。」
(松本侑子訳『赤毛のアン』訳者あとがき p.525 、p.529)

という理解に類する批評家やその意見に影響された読者によって、ますます「アン・シリーズはモンゴメリにとっても不本意な作品」と見なされるようになってしまったようです。
しかし、私がこれまで集めてきたパズルのピースが浮かび上がらせたものは、そのような今風のフェミニズム的な像とは全く異なるものでした。
モンゴメリが描いていないと松本さんの言う「大人の女の真実、率直な心理や肉体の動き、欲望、不満」にしても、それは松本さんに見えるもの、松本さんの中にあるものとしては描かれていないのでしょうが、モンゴメリの、そしてアンの「周りの世界を切り取る感性」が捉えた「大人の女の真実」はアン・シリーズの中で存分に描かれたと感じる私。
そしてモンゴメリが描いたものの方が、松本さんが期待しているであろうものよりも、普遍的で本質的なものに近いと思います。

モンゴメリが描きたくても描けなかったものがあるとすれば、それは「言葉で表現された観念とはかけ離れたある秘密、謎めいた魅力を宿していると思われる詩」ではなかったかと思う私。
1930年10月、40年ぶりに父のいた町プリンス・アルバートへ向かうカナダ国有鉄道の中で、マクミランから送られた『ジョン・オー・ロンドン』誌を退屈しのぎに読んだモンゴメリは、そこに載せられていたポオの「ある詩の中に美わしき物を発見」します。

私は日々を夢うつつで過ごす。
そして夜毎の夢の中では
君の黒い眼が輝き ---
君の素足が白く光る。
ああ 永遠の流れのほとりの
なんという その軽やかな踊り。
(エドガー・アラン・ポオ「天国のある人に」の最終連。入沢康夫訳)

モンゴメリは最後の二行に「抗しがたい魅力」を感じ、繰り返し読み返しては「そのたびに体を伝って走る身震いするような魂の法悦」を感じたといいます。
それは「ほとんど苦悶といっていいほど激しいものでした。でも、なぜ --- なぜなのでしょう?」と書き記すモンゴメリ。(『モンゴメリ書簡集I』p.191~192)

そして、『ザノーニ』を生涯に渡って愛読したモンゴメリ。
文字ではとうてい表し得ない、カーテンの向こうに見えかくれする魔法のような世界の秘密を、物語ではなく一遍の詩にしたためたいというのが、モンゴメリの心の奥底に秘められた夢だったのかもしれません。
もちろん、だからといってアンのお話のような物語を書くことが嫌だった訳ではなく、それらを書くことが彼女にとっての ' Hill Road ' だったはずです。
彼女が坂を登る途中で遺した作品の数々、『夢の家』やアン・シリーズの最後の作品である『幸福』や『炉辺荘』の随所に「体を伝って走る身震いするような魂の法悦」を感じる私からみると、モンゴメリは十分に夢をかなえているように見えます。
しかし、' Hill Road ' を自分が寄って立つ信条としたモンゴメリにしてみれば、登るべき新たな山は永遠に目の前に現れ続けるものだったのでしょう。
その夢をこれ以上追い求めることができない晩年の病の身の上、というより新たな山を登る意欲が湧き出ないという現実が突き付ける自分自身の限界が、何よりも辛かったのではないか、そう思えてなりません。

人間の真実の輝きに溢れた物語を綴ったモンゴメリ。
それは単なる少女向けのお話ではなく、主人公と自分の人生体験を重ね合わせることによってのみ触れることのできる世界。
彼女の作品の価値は、学問的に明らかにされるまでもなく、多くの読者たちに感じ取られるものだったからこそこれほどまでに広く長く読み継がれてきたのでしょう。
そして今、電飾に照らし出され『空に輝く星もない夜』に近づいた時代の夜空にも、モンゴメリの月明かりが射し込む様が見える私です。

I wonder if, a hundred years from now, anybody will win a victory over anything because of something I left or did. It is an inspiring thought. '

「いまから百年後になって、だれかが、わたしの遺すものやまたしたことによって何かに勝つことがあるだろうか。こう考えるだけで奮起せずにはいられない。」

(村岡訳『エミリーはのぼる』P.9)

モンゴメリというジグソーパズルは、これにてひとまずおしまい♪

記:2007年3月18日〜4月24日

8章に一部追記:2009年5月9日

番外 「心の同類」考

長男に「泥って英語で何て言うの?」と聞かれ辞書をめくっているうちに、いつものように深みにはまった私。
ふと気が付くと「druid(ドルイド)」という文字が目に入りました。

ドルイドとは、古代ゲール(現フランス)や古代ブリタニア(現イギリス)に居たケルト人の祭司のことですが、その語源をたどると「dru-」(意味:tree) と「wid-」(意味:knower)を合成した言葉なので、意味は「knower of trees (= 樹を知る者)」となると書いてあったのです。
日本語の泥(doro)と木の意味を持つ「dru」。
離れているようで、なんか近いような・・・。

この微妙な距離感を一気に埋めてくれたのが、ある日の新聞記事。

松本健一氏の『砂の文明・石の文明・泥の文明』によれば、日本は泥の文明圏に属している。泥土の中から生まれる木などを使って建物や橋を造る。その生命力への畏(おそ)れの念から、西欧などの石の文明、砂漠地帯の砂の文明とは違う思考を育ててきたという。

なるほど!
確かにちょっと見渡したところでは、世界は砂か石か泥か、3つの文明圏のいずれかに属するといえるのかもしれません。
泥土の中から生まれる木などを使って建物や橋を造る日本が「泥の文明圏」であるのなら、木への信仰を司るドルイドという階層をもつケルトの民も、いわゆる「泥の文明」に属していると言えないでしょうか。

そして、モンゴメリを調べていた私の前にひょっこり出てきたのが、「doric(ドーリック)」という言葉。
"AFTER GREEN GABLES "(『ウィーバー宛書簡』)で紹介されているウィーバーに宛てた手紙で、モンゴメリはスコットランドの方言が大好きだと書いているのですが、そこで「ドーリック」という言葉を用いているのです。
この「doric」の箇所についていた注釈には

「ドーリックとは、本来ギリシャに1100B.C.頃移住してきた『dorian(ドーリア人)』という民の話す言葉を指すが、転じて『いなかの』という意味になり、英語では特にスコットランド地方の方言のことを指す」
(『ウィーバー宛書簡』p.205)

という趣旨のことが書いてあります。

スコットランドといえば、やっぱりケルト。(笑)
もしかしてもしかすると、ドーリア人とブリテン・ケルト人は、なにか関係があるのかも!?
と気になった私は、ウィキペディアで「dorian(ドーリア人)」を検索。
すると、次のように書かれてありました。

'Dorian from Doris, "woodland" (which can also mean upland).[2] 
The Dori- segment would be from the o-grade of Indo-European *deru-, "tree". 
The original forest must have comprised a much larger area than just Doris. 
Dorian might be translated as "the country people", "the mountain people", 
the uplanders", "the people of the woods" or some such appelation, which is 
eminently suitable to their reputed origin.’


ドーリアという名は、「Dori-」という部分がインドヨーロッパ語属の「deru-」にあたり、意味はtree(木)と書かれてあるではあ~りませんか!
このドーリア人は、ギリシャのペロポネソス半島に定住したそうで、代表的な都市国家はスパルタとのこと。
徐々にクレタ島や小アジア、果ては現イタリアのシチリア島まで勢力を拡大していったそうです。
で、クレタ島の「crete」とケルトの「celt」、字面も似てるし何かある??(笑)

ちなみに「creta」はラテン語で、黒板に字を書く時に使うチョーク(白亜)とかクレイ(粘土)のことをいうらしいです。
で、思い出すのはイギリスの歴史小説家ローズマリー・サトクリフの『ケルトの白馬』。
主人公のルブリン・デュは、緑の芝地の下に埋もれる白亜層を掘り出して、なだらかな丘の斜面に活き活きと走る馬の造形を創りました。
この古代の遺跡は、今も実在するそうです。
ケルトに留まらず、北の海からブリテンにやってきてケルトと同化したノルマン(ヴァイキング)の世界、そしてギリシャ神話の世界まで鮮やかに描き出してみせたサトクリフは、クレタからケルトへ、そして現代へと繋がる何かを表現していたのかも・・・?

古代ギリシャの神殿建築の柱にはドーリア式、イオニア式、コリント式の三つの様式があることが知られていますが、かの有名なパルテノン神殿のものは三つの様式の中で最も古いドーリア式円柱。優雅なイオニア式、華麗で技巧的なコリント式に比べて太くて素朴なデザインのドーリア式の柱は、私には大木をモチーフにしているようにもみえます。

いずれにせよ「泥や木の文明」という共通項で、日本とケルトとギリシャのドーリア人を括れるとしたら、なんだか面白いではありませんか♪
そういえば確か、感性の違いとDNA分析を比較考証して、日本人の一部がイギリス人やスカンジナビアの人たちの一部と重なったという、興味深い本(『三重構造の日本人』望月清文著  NHK出版 p.194, 198)もありましたっけ・・・。

私的には、英語圏以外でなぜ日本にモンゴメリファンが多いのかということも、こう考えるとまんざら不思議ではないかもしれない、ってところが面白いのです。
私たちは、doricを好んだモンゴメリの同類(kindred:木の同族?)なのかも、って思うとなんだかゾクゾクしてきませんか♪(笑)

モンゴメリのエミリー・シリーズを30年ぶりに読み直してみました。
エミリーの恋人テディ(Teddy)の本名は、フレデリック・ケント(Frederick Kent)っていうんですよね。
二巻目のラストで、突然明かされる(?)彼の本名を見た私の脳裏に浮かんだのは、モンゴメリが愛した「doric」のこと。
もしかすると、dori(木)をfrie(愛する)という意味を持つ「Friedrich」の英語名を、自分の分身であるエミリーの恋人の名につけたかったのではないでしょうか。

でも、なんでフレデリックの愛称がテディなの?

調べてみたら案の定、Frederickの愛称は通常は、Freddy、Fred, Fritzのいずれかで、テディになる名前はTheodoreとかEdwardとからしい。
そういえば、テディが愛称となる「Theodore」の語には、Theo(神の)+dore(贈り物)という意味があるそうなんですが、『赤毛のアン』の主要登場人物であるマシュウ(Matthew)の名も、その語源を辿ると「神(Jehovah)の贈り物」になるんですよね。
(両方とも『The American Heritage Dictionary』1980年より。)

で、私的に繋がっちゃったのがモンゴメリの独特(?)な男性観。
モンゴメリお気に入りナンバーワン・キャラのジム船長やマシュウ、そして文通相手だったマクミランに見られる「女性と関係を持たない男性たち」の存在です。

例えばマシュウ。

「マシュウは、マリラとレイチェル夫人のほかは女という女をいっさい恐れていた。この気味の悪い、生き物どもがこっそり自分のことを笑っているのではないかと、思えて仕方がないのであるが、その不安は的中しているとも言えた。というのは彼は体つきはがさつで、長い鉄色の髪は、前こごみの肩まで下がり、ふっさりした、やわらかい鳶色の、あごひげは二十歳のころからはやしている、という奇妙な風采をしていたからである。じっさい二十歳の時分から六十歳の今ぐらいにふけて見えた。ただ白髪が少ないくらいの違いだった。」
(『赤毛のアン』村岡花子訳 新潮文庫 p.16)

そんなマシュウにとって、「獅子の洞穴へはいって行くよりも、つらいこと---すなわち、女の子のところへ、しかも見知らぬ孤児の女の子のところへ、歩いて行って、どうしてお前は男の子ではないのかと、問いたださなくてはならないはめに」(p.18)なるところから、『赤毛のアン』のお話は始まります。

「マシュウはおずおずと日焼けした小さな手を握っていたが、即座にどうしたらいいか決心した。こうして目を輝かせているこどもに事のいきちがいがあったとは、どうしても言えない。家へ連れて行ってマリラに、そのことは言わせよう。どんな、いきちがいにしろとにかくこの子をブライト・リバーの駅に放っておくわけにはいかない。だから、問いただしたり説明したりすることはいっさい、『緑の切り妻(グリーン・ゲイブルス)』へ帰り着くまでのばしたほうがいいだろう。」(p.20)と判断するマシュウ。

馬車に乗り込み、喜びのあまりしゃべりまくるアンに、「自分でも驚いたことに、マシュウは愉快になってきた。無口の人々のつねとして彼も相手がしゃべるのを引き受けてくれて、こちらに相づちを求めたりさえしなければ、話をする人が好きだった。しかし、よもやこんな小さな女の子の話に、よろこんで耳をかたむけようとは夢にも思ったことがなかった。たしかに婦人連は苦手だったが、少女ときたらそれに輪をかけたものだった。女の子たちがただの一言でも、ものを言ったら、彼がぱくっと、のみこんでしまいはしないかと言わないばかりに、横目で彼のほうを見ながら、こわごわそばを通り過ぎていくようすが大嫌いだった。しかもそれがアヴォンリーの育ちの良い女の子の行儀だった。」(p.24)

『アンの夢の家』に出てくるジム船長もそう。
平底舟で眠りに落ち、海で遭難してしまう恋人マーガレットへの思いを大切にし、生涯独身を貫きます。

マシュウにしてもジム船長にしても、その人物描写からは作者の並々ならぬ愛情が感じられます。
なにしろモンゴメリは、アンの長男に二人の名前を与えているのですから。

「『ジェームス・マシューというんですの---わたしの知っている人たちの一ばん立派な二人の紳士の名前をとってね---あなたを前において、こう言えますの』と、アンはギルバートを小憎らしい目付きでちらっと見た。」
(『アンの夢の家』村岡花子訳 新潮文庫 p.301)

そして、モンゴメリの文通相手だったマクミラン。
モンゴメリ夫妻が新婚旅行で先祖の出身地であるスコットランドを訪ねた際、案内にたった英国人ジャーナリスト。
その時連れていた若い女性にマクミランが思いを寄せていたことは、モンゴメリの目にも明かだったようですが、その後女性は別の英国軍人と結婚してしまったそう。
時代は第一次世界大戦。
持病から従軍できなかった自分に後ろめたさを感じるマクミランを手紙で慰め続けたモンゴメリでしたが、マクミランが女性にふられたことは知らなかったようで、ずっと後の手紙でマクミランにその女性のことを尋ねていました。

「わたしは、今まで、あなたの友情とお手紙ほど大切にしてきたものはほとんどありません。」
(1941年12月23日『モンゴメリ書簡集I』p.252~253)

と、マクミランへの最後の手紙に記したモンゴメリ。
しかしそんなモンゴメリ自身、若い時分には結婚相手としてマクミランのような男性をイメージできなかったわけですから、女心というのは複雑なものなのかも知れません。

ところで、クリスマスシーズンが近づくにつれ、頻繁にコマーシャルされるようになった映画に『マリア』という作品があります。

「イエス・キリスト誕生までの母マリアと夫ヨセフの物語。」

その広告文を読んだ私は、あっ!と閃いたんです。
ジム船長の台詞にある「ヨセフを知る一族(the race that knows Joseph) 」のヨセフって、大天使ガブリエルに受胎告知されたマリアの旦那さんのことなんじゃないの・・・って。

普通は、モンゴメリ言うところの「ヨセフを知る一族」のヨセフは、旧約聖書の一番最初の「創世記」に出てくる「エジプトに住んだヨセフ」のことだとされているようです。
なにしろ「創世記」に続く「出エジプト記」には、「ヨセフのことを知らない新しい王 “Then a new king, who did not know Joseph, came to power in Egypt.” Exodus 1:8.」という表現が出てくるのですから、それとの関連性を考えるのはごく自然なことでしょう。
でも、モンゴメリの魅力は「ユーモアの小悪魔」が作品の随所に顔を出すこと。
もしかしたら彼女一流のユーモアで有名な聖書の表現さえももじって、何かを表現してみせたのではないでしょうか。
肉体的な関係を持たずして、妻マリアとともに「神の贈り物」イエスを授かったヨセフ。
自らの血脈とは無縁のイエスを、わが子として守り育んだ父・ヨセフ。
性愛とは異なる次元の愛を知っている人たちを「心の同類(kindred spirit)」の最上格に位置づけるために、彼らを「ヨセフを知る一族」と名付けたのかもしれません。
そしてそのテーマを描くことに成功したからこそ、モンゴメリは日記で密かに、『アンの夢の家』は「一番の自信作」と喜んだのでは・・・と想像する私です。

なお蛇足になりますが、アメリカの風の季節である3月に定番のようにTVで放映されてる「オズの魔法使い」の主人公・ドロシー(Dorothy)の「doro」は、ギリシャ語の「doron」で「贈り物」の意味なんだそう。
はっ!
有名な映画俳優のアラン・ドロン(Alain Delon)の「ドロ」という音や、オードリー・ヘップバーン(Audrey Hepburn)の「dre」なども、もしかして「贈り物」の意?

それはさておき、「doro」とか「dori」とか「doru-」などは「木」を意味する、っていうことを前に書きましたが、だとすると「木=贈り物」ってことなのかもしれません。
そしてモンゴメリが好んで使った「kindred」の「dre」は、もしかしたら「木(dre)の一族(kin)」が今に伝える摩訶不思議な響きなのかも♪

それにしても凄いのは、「kindred」を「同類(dorui)」って、ちゃんと「dor」の音を生かして邦訳された村岡花子さん!
やっぱりセンスある~♪(尊敬)

ところで、モンゴメリは「kindred spirit」という表現をどのくらい使っているのでしょうか。
ざっと調べてみたところ、こんな結果になりました。

『赤毛のアン』では計15回。
4章と18章ではマシュウについて。
8章と12章、18章ではダイアナについて。
11章ではMiss Rogerson(先生)について「この人は違う」。
19章では2回、Missパーリー(ダイアナのおばあさん)について。
21章ではやはり2回、アラン夫人について。
22章では2回、例え話として。
23章でも2回。ベル校長は違う、ステイシー先生はそうだと。

『アンの青春』では計6回。
1章ではハリソンさんについて「この人は違う」。
21章と28章ではMissラベンダーについて。 
15章ではポールと共有している世界について。そのすぐ後で、マシュウのお墓について「solitude」の文字あり。
23章ではMissラベンダーについて。
28章ではポールの父親であるアービング氏について。

『アンの愛情』では計4回。
23章でポールについて。
29章のクリスチンと39章の「今の牧師の妻」については「この人は違う」。
40章で再びポールについて。

『アンの夢の家』では計9回。
1章で1回。アンの結婚式での「花嫁付き添い」の適任者がいないということについて。
5章で2回。レスリーについての疑問形で。
6章で3回。そのうち2回はジム船長について。
7章で1回。ジム船長のいう「the race that knows Joseph」と同じということについて。
8章で1回。Missコーネリアについて。
26章で11回。ジム船長の本を執筆したオーエンの台詞「kindred infinite」として。

『虹の谷のアン』と『アンの娘リラ』では記述なし。

『アンの幸福』ではエリザベスについての1回だけ。

『炉辺荘のアン』では計2回。
ダイアナとアン、レペッカ・デューとスーザンが、それぞれ「kindred spirit」の持ち主同士だと書かれていました。

第一作の『赤毛のアン』に次いでたくさん表現されているのは、モンゴメリの一番のお気に入りと言っても過言ではない『アンの夢の家』。
その第六章で、アンが、結婚して最初に住むことになる海辺の小さな家の先の住人であるMiss エリザベス・ラッセルという女性について、「kindred spirits(心の同類)」を感じるという描写があります。
そのすぐ後で、部屋に一人きりになったアンは、

「さびしい妖精の国々の
危険な海の泡の上に
魔法の窓がひらく」


という詩を口づさみます。
そしてこの後、モンゴメリのお気に入り・ナンバー1と言っても過言でない、あのジム船長が登場してくるわけなのですが、それはさておき。

この一節は何?
誰の作?

なんだか気になって調べてみたら、イギリス・ロマン派神秘主義にカテゴライズされる詩人ジョン・キーツ(John Keats :1795-1821)の詩の一節であることがわかりました。

そして、彼の別の作品「Sonnet VII. To Solitude」という詩の中に、「kindred spirit」という言葉があることを発見♪

O solitude! If I must with thee dwell,
let it not be among the jumbled heap
of murky buildings: climb with me the steep,―
nature's observatory―whence the dell,
in flowery slopes, its river's crystal swell,
may seem a span; let me thy vigils keep
'mongst boughs pavilioned, where the deer's swift leap
startles the wild bee from the foxglove bell.
But though I'll gladly trace these scenes with thee,
yet the sweet converse of an innocent mind,
whose words are images of thoughts refined,
is my soul's pleasure; and it sure must be
almost the highest bliss of human-kind,
when to thy haunts two kindred spirits flee.
 

(以上「bartleby.com」より引用。)




おお 孤独よ! もしもおまえと一緒に
暮らさねばならぬなら、この陰気な
建物ばかり 雑然と混み合うところは 
避けて、あの嶮しい崖、―自然の天文台―に
ぼくとともに登ろう。そこには 峡谷と、
花咲く傾斜と、水晶の川のうねりが見られるだろう。
鹿の軽やかな跳躍が ジキタリスの花から 野生の蜜蜂を
飛び立たせる 木枝の繁みのなかで、おまえとともに夜を明かさせておくれ。
しかし これらの光景を おまえとともに追おうとも、
その言葉が 洗練された思想の心象となる
無垢な人との 心のかよう美しい会話は、
ぼくの魂の悦びとなり、人間の もっとも
高い幸福となるにちがいない、ふたつの
親しい魂が おまえの住み家へ急ぐときには。
  (出口保夫 訳) 

(以上「音と言葉の草原」より引用。)

モンゴメリが好きだったという詩人キーツ。
彼がカテゴライズされる神秘主義というジャンルには、あの『ザノーニ』のブルワー・リットンがいます。
で、なんだかんだ言いながら、未だ『ザノーニ』を読んでいない私。
だって、いつも行く図書館にはないし、ネットで注文すれば手に入るようだけれど結構お高い★(笑)
仕方なくネットで関連情報を集めているうちに気を引かれたのは、イギリスの神秘主義者として有名なウィリアム・ブレイクというお人。

詩人で哲学者、版画家であり画家でもあったウィリアム・ブレイクは神秘主義者の代表格らしいのですが、彼の色刷版画作品のひとつである『ニュートン』が、ウィキペディアに載っています。そしてそこには、「薄暗い海底で、ニュートンがコンパスを用いて物質世界の解明を試みており、その体は岩と同化しつつある。科学万能主義への痛烈な批判である」という解説が!
科学万能主義は「岩と同化」することに等しいとしたウィリアム・ブレイク。
「神秘」と言う言葉には何やら怪しげなイメージが漂いますが、ブレイクにしてみれば、この世界に生じる現象を時空を超えたヴィジョンとして直観しようという率直さを失い、分析により客観的に理解される因果構造こそが全てとしてしまうことのほうこそ怪しく映ったのでしょう。

モンゴメリについて知れば知るほど、ジョン・キーツやブルワー・リットン、ウィリアム・ブレイクなど「神秘主義者」と世間から評される人たちもまた、彼女の「同類(kindred)」 だったのではないかと思う私にとって、キーツの用いた「kindred spirits」がアン・シリーズの「心の同類」の元ネタだったとしても何の不思議もありません。

なお、モンゴメリの翻訳を近年手掛けられている松本侑子さんのHP「Montgomery Digital Library」では、イギリスの詩人トーマス・グレイ(1716-1771)の代表作「田舎教会の墓地にて詠める哀歌」の一節にある「KINDRED SPIRIT」が、『赤毛のアン』に出てくる「心の同類」ではないか、とカナダで発行になった「THE ANNOTATED ANNE OF GREEN GABLES(注釈付き『赤毛のアン』)」に出ていることが紹介されています。
でも、松本さんはこの説には否定的なご様子。

しかし、トーマス・グレイに約半世紀遅れて生を受けたウィリアム・ブレイクが、グレイの詩に自分の水彩画を合わせた作品を創作しているところから察するに、キーツもグレイを「同類(kindred)」と看做していたのかも知れず、「KINDRED SPIRIT」はモンゴメリを含めた「神秘主義者」たちにより共有された表現だったのでは、と思う私です。

記:2007年12月23日

番外その2 村岡花子さんとkindred spirit

2008年3月4日の産経新聞にこんな記事がありました。

一部に原文が省かれた個所があり、新装版では「赤毛のアン記念館・村岡花子文庫」(東京都大田区)を主宰する孫の村岡美枝さんが補った。
(中略)
原文が抜けた理由は不明だ。村岡は昭和14年、カナダ人宣教師から原書を贈られた。戦時中の灯火管制のもとで訳し続け、単行本(三笠書房)の出版にこぎつけたのは27年5月。美枝さんは「紙の調達が難しかった当時の状況も影響したのでは」と推測する。


なるほど。様々な制約のなか、どこかを省かざるを得ないということはあったでしょう。
でも、なぜその箇所が省かれたのか? という疑問は残ります。

例えば、私の手許に2種類の『クオレ』(エドモンド・デ・アミーチス 作)があります。
ひとつは昭和33年に大日本雄弁会講談社から『少年少女世界文学全集』の南欧・東欧編第二巻として発行された『ピノッキオ/クオレ』に納められているもので、もうひとつは偕成社が刊行している偕成社文庫完訳版古典シリーズのひとつとして2003~4年に発刊された全2巻のものです。
いずれも、矢崎源九郎さんという方が訳されたもので、二つの間には若干の表現の差異が見られるものの、文体が醸し出す雰囲気は全く同じものといって良いものです。
しかし、この二つの『クオレ』にはとても大きな違いがあるのです。それは、古いほうの『クオレ』は完訳版の半分の内容しかない、ということ。
『クオレ』は、主人公の小学生・エンリーコの学校生活の一年間を、彼の日記を通して描くというスタイルをとっている作品なのですが、完訳版ではちょうど 100項目の日記エピソードが綴られているのに対して、昭和33年のものには53のエピソードしか取り上げられていません。
そしてその理由は、『ピノッキオ/クオレ』巻末の解説の中で明快に示されています。

なお、紙数の関係から、子供の心を戦争へとかりたてるような話とか、あまりにもかたくるしい、教訓めいた話などは、多少はぶいてあることを、ひとことおことわりしておきます。

二つの『クオレ』を読み比べてみると、省かれたエピソードと残ったエピーソードとの間には言われるほどの差がないと思う私ですが、昭和33年という時代は「多少はぶいて」半分にしちゃうほど、その差にとても敏感だったのでしょう。

一部に原文が省かれた箇所があるという、村岡花子さん訳の『赤毛のアン』。
省略されている箇所については、まだきちんと調べたことがありません。
ですが、講談社版の『アンの青春』や『アンの娘リラ』に見られる「大きな欠落部分」に関しては、昨年春からモンゴメリを調べる中で、いくつか気が付きました。

例えば『リラ』では、第一次世界大戦についてのギルバートや村人たちの議論が、『青春』では、マシュウのお墓参りの前段で詩人のポールとアンが分かち合う世界について語られる箇所や、Missラベンダーとの友情がダイアナのそれとは異なるものであることについて表現された箇所が、それぞれ訳されていませんでした。(『アンの青春』昭和50年第4刷 講談社、並びに『アンの娘リラ』昭和53年第6刷 講談社より)

『リラ』で省かれた箇所には、「モンゴメリは主戦論者」と捉える人たちが根拠とするようなエピソードが描かれています(第4章参照)から、半分になっちゃった『クオレ』に現れたものと似た敏感さが発揮された結果なのかもしれません。

その一方、『青春』で省かれている箇所に描かれているのは、ポールやMissラベンダーとの「kindred spirits」についてです。
「kindred spirits」というアンシリーズになくてはならない表現を「(心の)同類」という的確な言葉で最初に翻訳されたのは村岡花子さんですが、だからこそ講談社版の『青春』で「kindred spirits」が描かれている、アンがポールと一緒にマシュウのお墓に向かうシーンやMissラベンダーとの間柄を表現する重要なシーンが、ごっそり抜け落ちているのはとても不思議・・・いったい、なぜ?

実は、村岡さんが訳し始められた当初はまだ、「kindred spirits」イコール「(心の)同類」ではなかったようなんです。
『赤毛のアン』 第4章でアンがマシュウのことをマリラに話すシーンで、初めて「kindred spirits」という表現が登場するのですが、村岡さんは

「I felt that he was a kindred spirit as soon as ever I saw him.」
小父さんを見た瞬間からあたしは気が合うだろうと思いましたわ

と訳されています。
また 『赤毛のアン』第8章でアンがダイアナのことをマリラに話す台詞、

「A bosom friend--an intimate friend, you know--a really kindred spirit to whom I can confide my inmost soul.」

は、

腹心の友よ---仲のいいお友達のことよ。心の奥底をうちあけられる、本当の仲間よ。

と訳しておられます。
それ以降「kindred spirits」という表現は13回ほど出てくるのですが、「本気」「心が通じ合ってる」「腹心の友」「腹心」「腹心の人」「共通の好み」などと訳されていました。
そして「kindred spirits」とは別に、『赤毛のアン』には「bosom friend」という表現も14回ほど出てきますが、それらについては「腹心の友」「腹心」「親友」と訳されています。
つまり、まだ「kindred spirits」=「同類」ではなく、どちらかといえば「kindred spirits」=「bosom friend」という捉え方になっているのです。(以上『赤毛のアン』昭和57年65刷 新潮文庫より)
そして、これ以降のアン・シリーズには登場しなくなる「bosom friend」。



村岡さんはアン・シリーズを訳されていく中で、繰り返し登場してくる「kindred spirits」という言葉の重要性に気付き、「腹心の友」とも異なる概念として、途中から「同類」とネーミングされるようになったのでは?と思うのです。


そこで、新潮文庫の『アンの青春』(昭和40年27刷)を手にいれて調べて見ました。村岡さんが亡くなったのは昭和43年ですから、昭和43年以降に増刷された版は村岡さん以外の方により表現が修正されている可能性があると考えられるからです。
すると、村岡訳講談社版では省略されている15章のマシュウのお墓のシーンや、21章、23章、28章のMissラベンダーとの友情の箇所に出てくる「kindred spirits」はきちんと「同類」と訳されているにもかかわらず、第1章に出てくる「kindred spirits」は「同じ型」という言葉に訳されています。「bosom friend」とは区別して使われる「kindred spirits」という言葉は『赤毛のアン』から登場していますが、その概念を村岡さんが「腹心の友」とは異なる「同類」と訳されたのは、どうやら新潮文庫の『アンの青春』第15章からのようです。(2008.12.19 追記)


さて、村岡花子さんが『赤毛のアン』から省かれたという箇所も、「kindred spirits」と関係があるのでしょうか?
「kindred spirits」は、モンゴメリの神秘主義的なセンスが込められた、とても重要なイメージです。そして、モンゴメリも自覚していたように、彼女の神秘主義的なセンスは多くの人が素朴に共感できるものでもなく、ましてや理屈で理解できるものでもありません。
灯火管制の中で『赤毛のアン』の訳出に取り組んでいた村岡さんを突き動かしていたのもまた、モンゴメリとの間の「kindred spirits」だと思うのですが、そんな村岡さんにとっても戸惑いを覚えずにおれない、そんなイメージがそこに描かれていたとしたら・・・。

あぁ!これって書き出したら止まらなくなっちゃう魅力的な話題です!(笑)
調べたいこともたくさん出てきたし。
でも今は、片付けなくちゃならないerrandsが山積み。
なので、原文が訳されていない箇所についての私論は、また落ち着いたら少しずつ調べてみたいと思います。

記:2008年3月15日

番外その3 アン・シリーズ出版順年代表

アン・シリーズ全8冊を、出版順に表示してみました。

 

 

 

タイトル

 

出版年

 

モンゴメリの歳

 

アンの歳

 

物語の中の年代

 

『赤毛のアン』

 

1908年

 

33歳

 

11~16歳

 

1877~1882年

 

『アンの青春』

 

1909年

 

34歳

 

16~18歳

 

1882~1884年

 

『アンの愛情』

 

1915年

 

40歳

 

18~22歳

 

1884~1888年

 

『アンの夢の家』

 

1917年

 

42歳

 

25~27歳

 

1891~1893年

 

『虹の谷のアン』

 

1919年

 

44歳

 

40〜41歳

 

1906〜1907

 

『アンの娘リラ』

 

1921年

 

46歳

 

48~53歳

 

1914~1919年

 

『アンの幸福』

 

1936年

 

61歳

 

22~25歳

 

1888~1891年

 

『炉辺荘のアン』

 

1939年

 

64歳

 

3339

 

18991905
      

 *太字で描かれた「アンの歳」と「物語の中の年代」は、2020年3月2日に訂正した箇所です。

こういう表にして初めて気が付いたこと・・・それは・・・。

1877年の6月に11歳だったアン。

おそらく1866年の生まれだと思われますが、私はそのほぼ100年後に生まれました。

アンは1888年に大学を卒業していますが、私は1988年。

アンは1891年に結婚していますが、私は1990年。

アンは1892年に第一子をお腹に宿しますが、私も1992年に長男を授かりました。

というわけでアンと私の年代は、ほぼ100年の時を隔てて重なっていたのです。

知らなかった・・・。

なんとも感慨深いものがあります。

記:2008年7月21日

番外その4 ひなげしと水仙

一月の北風から身を避けようと入った古本屋で、ふと目にした『イギリス名詩選』という単行本に、次のような詩を見つけました。

 


【96】兵士
ルパート・ブルック

もし僕が死んだら、これだけは忘れないでほしい、---
それは、そこだけは永久にイギリスだという、ある一隅が
異国の戦場にあるということだ。豊かな大地のその一隅には、
さらに豊かな一握りの土が隠されているということだ。

その土は、イギリスに生をうけ、物心を与えられ、かつては
その花を愛し、その路を闊歩した若者の土なのだ。
そうだ、イギリスの空気を吸い、その川で身を濯ぎ、その
太陽を心ゆくばかり味わった、イギリスの若者の土なのだ。

また、---もし僕の心が罪に潔められ永遠者の脈うつ心に溶け
こめるならば、感謝の念をこめて、故国によって育まれた
数々の想いを故国に伝えるであろうことを、---
故国の姿や調べを、幸福な日々の幸福な夢を、友から学んだ
笑いを、祖国の大空の下で平和な者の心に宿った
あの優しさを、故国に伝えるだろうということを。

 

【96】Brook(1887-1915)は将来の大成を期待されていた詩人だが、第一次世界大戦に参加し、まもなく病死した。彼も「戦争詩人」の一人であるが、第一次・第二次大戦の凄惨な事態を経験した人々からは敬遠されているようである。この詩は、詩集『一九一四年その他』(1914 and Other Poems,1915)に収録。

(以上『イギリス名詩選』平井正穂編 岩波文庫 p.318~319より。)


虹の谷で過ごした幼い幸福な日々を胸に、フランスの土となったアンの次男坊ウォルターが彷彿とされるこの詩に、ああ、やっぱりルーパート・ブルックがウォルターのモデルだったんだ、と改めて思った私。

ブルックの詩を愛していたモンゴメリ。(第3章(2)参照のこと)
祖国を愛し、その未来のために散っていった美しい詩人が書き残した詩こそ、いつまでも人々に読み継がれてほしい。
そんな思いからウォルターのラストエピソードは形作られたのではないでしょうか。
しかし実際に当時のカナダの人々の胸に響いたのはブルックではなく、ジョン・マクレーという従軍医が1915年に書いた次のような詩だったそう。


 

In Flanders Fields


In Flanders fields the poppies blow
Between the crosses, rowonrow,
That mark our place; and in the sky
The larks, still bravely singing, fly
Scarce heard amid the guns below.

We are the Dead. Short days ago
We lived, felt dawn, saw sunset glow,
Loved, and were loved, and now we lie
In Flanders fields.

Take up our quarrel with the foe:
To you from failing hands we throw
The torch; be yours to hold it high.
If ye break faith with us who die
We shall not sleep, though poppies grow
In Flanders fields.



フランダースの野にポピーたちがそよぐ
立ち並ぶ列また列の十字架
俺達の場所と刻印された原、そして空には
勇敢に歌うヒバリたちが飛ぶ
(その声は)銃声の中に掻き消される

俺達は死者
つい昨日まで
俺達は生きていた
夜明けを感じ
夕日の輝きを眺め
愛し、愛されていた
そして今俺達は横たわる
フランダースの原に

反撃を開始せよ
敗れし者の手からあなたに
俺達はこの松明を投げ渡す
あなた達はそれを高く掲げてくれ
旅立つ俺達の信頼が裏切られたら
俺達は眠れない、どんなにポピーが咲き誇ろうと
このフランダースの原に


(以上 Hatena::Questionサイト様より和訳引用。http://q.hatena.ne.jp/1195015943/126168/



 

生きているもののいなくなった大地から芽吹くというpoppy(ひなげし)の花が象徴しているのは、戦争で亡くなった兵士たちの無念。
最後の時も祖国への愛を歌ったブルックとは、だいぶ趣の異なる現代的な反戦詩といえる作品です。

第9章(1)でも紹介したとおり、モンゴメリ研究家の梶原由佳さんは流行したマクレーの詩がモンゴメリにウォルターのラストエピソードを思い付かせたに違いないと、ご自身のサイトで書かれています。(http://yukazine.com/lmm/j/articles/remembrance.html
村岡花子訳の『アンの娘リラ』の第十九章には、梶原さんが自説の論拠としてその一部を引用されている次のような文章があります。

「僕は、炉辺荘の庭の水仙のことを考えている。この手紙が届くころには、美しいばら色の空の下で咲き出しているだろう。水仙は、ほんとうに、前とかわらず美しい金色をしているかい、リラ?ぼくには---ここのけしの花のように---血で赤く染まっているに違いない気がするのだ。【中略】リラ、小さな詩を一つ同封する。これはある晩、塹壕の地下室の中で一本のローソクの光をたよりに書いたものだ【中略】そういうわけでこの詩をロンドン・スペクテーター誌に送ってみたら、印刷して一部送ってくれたのだ。君の気にいればいいがと思う。僕が海外へきてから書いた詩はこれだけだ」【中略】これを読んで母親や姉妹たちは泣き、若者たちは血を湧かせ、人類の偉大な心全体がこの大戦争のあらゆる苦しみ、希望、憐れみ、目的の縮図を三つの短い不滅の節に結晶させたものとしてこの詩を掴んだ。

さらに、モンゴメリの原著には村岡さんが訳していない


 カナダの一兵士がフランドルの塹壕で偉大なる戦争の詩を書いた。


という一文があることを指摘しつつ、けしの花が言及されていること、三つの短い節であることとあわせて、マクレーとその詩が、ウォルターのエピソードの原型となっているとする梶原さん。
確かにブルックのThe Soldierは、マクレーのIn Flanders Fieldsのような「三つの短い不滅の節」ではありません。
でも「血で赤く染まっている」「けしの花」と対置させるようにおかれた「美しい金色」の「水仙」に、マクレーよりもブルックを感じる私。
ブルックも、フランダースの地(アントワープ)に従軍していたそうですが、別の地で1915年に戦病死しています。(http://www.geocities.jp/steyuki/warpoets/warpoets_brooke.html


第4章(3)でも書きましたが、モンゴメリは1917年の11月には既に「(アンの)息子たちが前線に赴く話を書こうと計画」していることを、文通相手のウィーバーに書き送っています。
マクレーが戦病死したのはその翌年の1月。
つまり、ウォルターの死にまつわる一連の物語の構想も、それが綴られ始めたのも、マクレーの死より前だったようですから、ウォルターのラストエピソードは、やはりブルックの人生から得たものだったと思う私です。


そして喜びや希望の象徴である水仙を、モンゴメリが愛した英国詩人たちが繰り返し詩に詠んでいたことを、古本屋で見つけた本で知った私。
ちなみに、ウォルターが詩を送ったことになっているスペクテイター社は、モンゴメリも一目置いていた有名な出版社。
そこで認められた作品は、詩人たちから本物と見なされた登竜門だったようです。
マクレーの詩は最初、そのスペクテイターに送られたそうですが、なぜか採用されなかったそうで、その後パンチという風刺漫画雑誌から発表されたそうです。

記:2010年2月15日

引用文献と参考文献

引用文献

1)"After Green Gables: L.M. Montgomery's Letters to Ephraim Weber, 1916-1941"

2)『モンゴメリ日記(1897~1900)』桂宥子訳 立風書房

3)『モンゴメリ書簡集I』宮武潤三・順子訳  昭和56年発行 篠崎書林

4)『赤毛のアン』松本侑子訳 1993年発行 集英社

5)『アンの夢の家』 村岡花子訳 昭和57年47刷 新潮文庫

6)『L.M. Montgomery』 桂宥子著 KTC中央出版

7)『アンの娘リラ』掛川恭子訳 講談社

8)『モンゴメリ日記1889~1892』桂宥子訳 立風書房

9)『アンの愛情』村岡花子訳 昭和57年55刷 新潮文庫

10)『アンの娘リラ』村岡花子訳 昭和53年第6刷発行 講談社

11)『誕生日事典』 角川書店

12)『「赤毛のアン」を書きたくなかったモンゴメリ』梶原由佳著 青山出版社

13)『エミリーはのぼる』村岡花子訳 新潮文庫

14)『エミリーの求めるもの』村岡花子訳 新潮文庫
15)『運命の紡ぎ車』モリー・ギレン著 宮武 潤三・順子訳 篠崎書林

16)"Selected Journals of L.M. Montgomery Volume II: 1910-1921" OXFORD

17)『誰も知らない「赤毛のアン」』松本侑子著 集英社

18)『アンの幸福』村岡花子訳 昭和57年48刷 新潮文庫

19)『炉辺荘のアン』村岡花子訳 昭和57年44刷 新潮文庫

20)『アンの夢の家』掛川恭子訳 講談社


参考文献

1)『赤毛のアン』村岡花子訳 昭和57年65刷 新潮文庫

2)『アンの青春』村岡花子訳 昭和50年第4刷 講談社

3)『アンの愛の家庭』村岡花子訳 昭和53年第6刷 講談社

4)『虹の谷のアン』村岡花子訳 昭和53年第6刷 講談社

5)『可愛いエミリー』村岡花子訳 新潮文庫

6)"ANNE OF GREEN GABLES" 1970年 GROSSET & DUNLAP

7)"ANNE OF AVONLEA" 1970年 GROSSET & DUNLAP

8)『アンの青春』村岡花子訳 昭和57年60刷 新潮文庫