2001年のひとりごと
「心のケア」と「誇り」(9.16)
昨夜(9月15日)は、またFEN放送を聞きながら、夕食の後片付けをしていました。
テロ事件が11日に発生して以来、アメリカの動きが少しでも知りたくて、いつの間にかFENラジオに周波数を合わせるようになっています。
昨夜は、今回のテロ事件により大勢の子供達がかけがえのない親を亡くしたり、あるいは事件の衝撃を肌で感じて笑顔を失ってしまっている、と報じたうえで、そうした子供達の心のケアについての専門家の見解を、次のようにまとめていました。
恐怖を感じた子供達には、今回の映像を極力見せないように配慮し、普段通りの日常生活を送れるよう、大人達が心掛けること。
また、親を亡くした子供達には、亡くなった大人達が、皆愛国心あふれる立派な人たちであったことを伝え、なぐさめることが大切であること。
う~ん。これって、最新の精神医学の成果からまとめられたアドバイスなのでしょうが、私はラジオを聞きながら、先の戦争で身内を亡くされた多くの日本人についても、同じことが言えたのだろうなということに、今さらながら気がつきました・・・。
そういえば、連合国は、日本の精神的独立を脆弱化するような数々の占領政策を実施しはしましたが、国土の分割統治は行わず、マッカーサー元帥の「天皇は日本人のこころの支えである」との進言により、日本人の一体的なアイデンティティーがギリギリのところで守られたことは、その後の対共産圏力学にその必要があったにせよ、的確なPTSD対策になっていたんだなぁと。
その一方で、われわれ日本人は何をしたかと言えば、戦争で散っていった方達が勇敢な愛国心溢れる人々であったと残された人々をなぐさめることは、忌むべきことであるという観念を、マスコミや歴史教科書を通じて浸透させ、遺族のこころは置いてきぼりのまま、戦後の復興がなされてしまったのかもしれないんだって・・・。
そうしていくつかの世代が重ねられた今、集団的に個人の存在を否定する「いじめ」に対しても、受ける側の責への関心ばかりが強い社会となってしまったのかもしれないんだと、妙~に合点がいったり。
でも、本当に不思議・・・。
だって、競争社会と評される米国においては、弱者に対する実質的な配慮のあり方が議論され、人間の自立を支える「誇り」の大切さが強調されているのに比べて、心理的に均質で協調的な社会であると自覚されている日本においては、心が傷ついた人々に対して「全体について来れなくてどうする」とばかりに手を差し伸べる意識が見られず、個人の「誇り」は周囲との調和にとっての障害であるかのごとく受け止められているように、私には感じられるんです。
今回のテロ事件で、アメリカ人の一丸となった勇気ある対応のさまを、FENラジオのレポートやテレビの映像から実感してしまい、日本に足りないものはなんなのかなぁと、非常に気になっている毎日です・・・。
心を見つめるということ(9.19)
イスラム原理主義者のネットワークによると見られる、米国に対する凄惨な同時多発テロに対して、日本では「アメリカの自業自得だ」ととらえたり、報復への動きを「戦争になるので反対」とする反応が散見されます。
自分たちとは関係のない他国で起こった事件だと、受け止めている(いたい)からなんでしょうか。
そして、何もしないでいれば、これ以上のテロ行為(虐殺行為)は起こらないとでも考えているのっ?!
確かに、日本とアメリカとの間にはあまりにも物理的な距離があることから、正直ピンとこない人たちがいるのかなとも考えましたが、向こうに行っている日本人特派員の方でも、私が共感出来る表情でレポートされている方はこの一週間、それほど見受けられませんでした。(NHKのワシントン特派員の方(お名前ワカリマセン)からは、現地の真剣さが伝わってきましたが。)
現地にいようが、日本にいようが、関係のないことなのかもしれません。
それにひきかえ、FENなどから聞こえてくるアメリカの放送は対照的です。
突然エゴイスティックな者たちによって命を奪われてしまった何千人の方々の無念さを、アメリカ中、いえ、世界中のアメリカ人とその友人たちが空間を越えて感じとれるようにと、意識された報道になっているなあ・・・と感じます。
迅速かつ冷静に、アメリカという国が自らのとるべき道を模索し続けている、その鼓動までがこちらに伝わってくるような・・・。
例えば、
等々。
レポートする側もされる側も、共に低く落ちついた声であったことと、早いテンポだったのが印象的です。
そこには、一人でも多くの人が今回の惨劇の実体を肌で感じとることにより、2度とくり返えされないための方法を、神の運命にゆだねるのではなく、生きている自分たちの責任において共に探し求めようとする一貫した姿勢が感じられます。
日本のコメンテーターと呼ばれる人たちがしたり顔で評する、「アメリカ人にありがちな子供っぽい感情的な様子」とは、明らかに違う何かが伝わってきます。
ところで、今週になって詳細がわかってきた、ピッツバーグ近郊に墜落したハイジャック機の乗客たちの勇敢な判断と行動が、テロリスト達の目的をとん挫させたという報道は、日本のとるべき道を考える上で非常に示唆に富んでいるように思います。
今現在の自由世界は、ハイジャックされた民間機であり、日本はその一(いち)乗客であると例えてみるのです。
ある乗客達は地上の人々と連絡をとり、何が起きているのかを把握し、テロ犯達にこれ以上の虐殺を許すまじと決断して、犯人たちの隙をついて飛びかかった・・・。
それはまさに、アメリカやその判断を支援する国々が、テロ組織を壊滅せんと覚悟をきめた現状と、酷似しているとはいえないでしょうか。
テロリストへタックルしようとするアメリカ人を、同乗している日本人が「なにが正義かわからないでしょっ!」と言って止めたり、「じっとしていてくれ! さもないと、皆死んでしまう~~!!」と叫んだりして妨害するなんてことは、まさかないと思いたいのですが・・・。
多様性と自由(9.26)
「We love our diversity and freedom・・・」
ニューヨークのジュリアーニ市長は、テロ事件の犠牲者の追悼式典に集まった人々にそう語りかけていました。
多様性と自由。
そこには可能性と言う力が存在します。
何人たりともそれを他から奪い取ることは許されない・・・私もそう思います。
しかし、「多様性と自由を愛する」ということは、実はむずかしい問題を含んでいます。
なぜなら、「人間にとっての」という意識になりがちなものだからです。
飢餓、天災、老い、病、そして死・・・。
人類はそれらの「悲劇」を最小限にくいとめたいと願い続けてきました。
自分のためだけではなく、他者のためにも。
そして、自分より「弱き」者のためにも。
そのための「可能性」であり、そうやって病を克服し、飢餓をなくそうと努めてきた年月は、決して間違いではなかったと、確かにそう思います。
でも、世紀を越えるあたりから、私たちははっきりと意識し始めているのではないでしょうか。
自らの「多様性と自由」のために、いつしか他の種をコントロールしてしまっていることを。
そして、自然から「多様性と自由」を奪ってしまったのだということに。
それでは私たちは、「真に多様性と自由を愛する」種になれるのでしょうか。
『ハイキングなどで、トレイルから外れて歩く時は、足跡がいつまでも残らない岩や砂、砂利、雪、落ち葉などの上を選んで、自然へのインパクトを最小限に抑えるよう心掛けましょう。』
これは、「次の人たち」へと伝えていきたい、大切な「歩き方」。
すべてはこれから・・・でもまずは自分の歩き方から・・・そう思います。
アンの息子ウォルター(10.4)
町の中央には、最近できたばかりの立派な公民館があり、毎週土曜日になると長男を連れて3階にある音楽室へ向かいます。子供合唱団の練習があるからです。
終わるまでの間、普段は部屋の後ろの方で、子供達の歌を聴いていたりするのですが、先週はふと1つ下の階にある図書室に行ってみようと思いつきました。
小さな部屋の手前の棚には、子供向けの本がたくさん並んでいましたが、懐かしいタイトルを見つけ、思わず手を伸ばしました。
それは、中学生の頃読んだ『アンの娘リラ』という本でした。
有名なモンゴメリの『赤毛のアン』には、7冊の続編があり(数え方によっては9冊になり)ますが、そのアン・シリーズの最後にあたる作品です。
アンとギルバートの家庭には6人の子供が生まれ、それぞれ魅力的な個性の持ち主に育つのですが、中でも私の一番のお気に入りは次男坊のウォルターでした。
母親似の豊かな想像力をもつ彼は、若者へと成長するにしたがい、詩人になりたいという夢を抱きますが、ある日じわじわと戦争の暗い影が忍び寄ってきます。
村の人々は、それぞれいろいろな感じ取り方をします。
「ヨーロッパで戦争がおこるからといって、それがどうしたというの? そんなことは、あたしたちには関係ないでしょうにね。」
「男だったら戦争にいくのが当たり前さ。行かないやつは憶病者だよ!」
戦争が長期化していく中で、想像力豊かであるがゆえに、敵方にも家族や娘や子供達がいることをまざまざと思い描いてしまうウォルターには、戦場という醜い場所へ行くことなど到底出来ないと、そんな自分自身にもがき苦しむようになります。
天真爛漫な末娘のリラは、兄ウォルターの一番の理解者ですが、上の兄や、秘かに思いを寄せる若者までもが戦争のために周りからいなくなってしまうことに、どうしても負けそうになる自分を奮い立たせながらも、まさかウォルターまでいなくなってしまうことなどありはしないと、考えないようにしていました。
しかしウォルターはある日、自らの意志で第一次世界大戦に出陣していきます。
そして『笛吹き』という名の一遍の美しく悲しい詩をこの世に残し、戦死してしまうのでした。
どうしようもない寂しさに包まれていくアンの家では、それでも1人の戦争孤児の赤ん坊が、様々な偶然と意志が重なりあうことにより、リラの手で大切に育てられていきます。赤ん坊なんて大嫌いだったはずのリラなのですが・・・。
そして犬のマンデーは、大好きなジェム(長男)が今日こそ汽車から降りてくるに違いないと、疑うことを知らない忠実な眼差しで、ずっと駅の片隅で待っているのでした。
まだ中学生だった私には、ひとつひとつのエピソードに心動かされはしても、なぜ善良で気高いウォルターが死ななければならないのかが、どうしても納得できませんでした。
でも今、再び読み返してみると、まさにそのようなウォルターであったからこそだったんだと、そう思えたのです。
愛する者を守るために互いが殺しあう戦争の不条理さに激しく葛藤し、嫌悪しながらも、詩を書くという夢を持ち続けるために、そして今日と明日の子供達のために、自ら戦争に赴く決意をしたのだと・・・。
ウォルターという人格にとっては、そうすることがこの世の美しさと悲しさを受けとめることであったのだと、そんなふうに感じたのです。
運命の笛吹きは丘の向こうから容赦なくやってきてしまう。
けれど、若い娘が赤ん坊をあやし育てる家々を守りたいとする思いは、たとえ死んでもこの世からなくなってしまうわけではない。
そんな希望とも、信念とも違う「何か」を、感じさせる描写なのでした。
逃げるための「理性」(10.7)
この前、国会中継を観ていたら唖然としてしまいました。
「テロ行為の原因や背景について考察せずに、『報復』攻撃を行ってもいいのか?」
「テロに会うのは、恨まれる様なことをしてるからではないのか?」
このおばさん(失礼)議員は自分が理性的だと思っているのかもしれないけど、なんでアメリカにはそう言えるのに、タリバンには何も言わないのぉ?
そういう発言をする人って、自分の近所で幼児に虐待行為をしている家庭があっても、
「虐待行為の原因や背景について考察せずに、その家をおかしいなんて通報してもいいのか?」
とか、
「その子が憎まれる様なことをしているからではないのか?」
なんて言うのでしょうか?
それじゃあ、「虐待行為」を容認してしまっているのと同じことになるんじゃないの?
虐待される子供達を助けるために、近所は何をするのかが重要なのと同様、テロ行為も、すぐには無くすことはできないかもしれないけれど、国際社会がテロ行為を許さないという姿勢を明確化することから、すべてが始まるのでは?
「知らないフリ」なんて言語道断だし、いろいろ理屈つけて問題から逃避し続けるのは、もうやめナイト!
人間に正義は語れないの?(10.14)
お気に入りのギャグ漫画を連載している少年雑誌を、今週も立ち読みせんと、夕食の買い物ついでに本屋さんに寄ってみました。(もちろんおもしろかったら、そのページのためだけにゲットです。)
ふと横を見ると、これまたいつもエッセーを読んでいる著名カトリック女性作家の、テロ事件に関する対談記事が載っている月刊誌があったので、そちらもチェックしてみました。
彼女は、ブッシュ大統領とビンラディンについて
「どちらも神に成り変わって正義を主張している。だからうさん臭い。」
「ブッシュは、キリスト教ではない。」
という旨の発言をしていました。
ウ~ン・・・。テレビや報道記事で見聞きするブッシュ大統領からは「うさん臭さ」なんて感じられないけれど。
むしろ、そう言う彼女のクリスチャンとしての自意識に、なんとなく「うさん臭さ」を感じてしまいました。
だって、「正義」ということについて人間は何も言えないとしたら、そんなの何か変。
そんなわけで、何か腑に落ちないものを感じながら帰宅しました。
実はその日はNHKのワシントン支局長・手嶋龍一氏の手記が載っている別の月刊誌を購入していました。
先月発生したテロ事件について、日本人の中ではこの人だけが、しっくりと来る報道をされているなと感じたので、それ以来すっかりファンになり、今回も即ゲットと相成りました。
アメリカに長年在住する日本人の多くの方が、いつも使いこなしている英語ではなく、慣れ親しんだ日本語でないとこの出来事を感じとり、考えることが難しかったと証言していたこととか、アメリカの現政権主要メンバーが事件に際してどう行動したか等、大変興味深い内容でした。
特に、フロリダの小学校を訪問中にテロ事件の第一報に接したブッシュ大統領が、急きょワシントンへと戻る際、児童達への配慮をないがしろにしなかったことや、黒人女性であるライス補佐官が9才の折に、人種的偏見からなるテロ事件で親友を失うという過酷な体験をしながらも、くじけることなく進んでこられた方であるという記事を読んで、ますます「うさん臭さ」とは縁遠い人間性を確認することができました。
考えてみれば、ブッシュ大統領やライス補佐官にとどまらず、アメリカの現政権(共和党)には、パウエル国務長官や、チェイニー副大統領など、穏やかで知的な表情や冷静沈着で頼りがいのありそうな雰囲気をかもし出している方々が何人も見受けられ、日本の多くの政治家にはない魅力を感じています。
そういえば、パウエル国務長官も、幼い頃の貧しい環境にめげずにここまでこられた方だと、どこかで読んだ記憶が・・・。
この未曾有の危機に際して、共和党のリーダー達が発する存在感は、なんなのだろう?
ビンラディンのある意味ハンサムな(?)顔だちからは、感じられない「もの」・・・。
もしかすると、自分自身の身を委ねている文化や宗教の枠を超えてでも、正義を求めようとする心意気の表出なのではないか? そんなふうにも思われました。
ところで、今回購入した雑誌の別のページには、ビンラディンに同情的なトーンで書かれた記事が載っていたんですけど、彼は元々「アラブ王族の子弟と遊んでいた大金持ちのお坊っちゃん」だったとのこと。ナ~ンダ、やっぱり全然違うジャン!
自分の望む自己実現がかなわないと感じた時、それを周囲のせいにすることで自身の精神的な安定を求める。
そんな弱い心が、他人を攻撃し、縛ることを正当化してくれる理屈を、宗教教義の解釈やイデオロギーに求める。
弱い心は、自らの傀儡である「神」や「原理」のもとに互いを糾合し、やがて自分の望む自己実現を阻んだ者たちへの攻撃を開始する。
人間として生まれた以上は誰もが持っている弱さから目を背けることなく、その弱さが生み出す暴力を排除するための意志と態度を貫らぬこうとする者に正義はある、そう言い切ることは不遜(ふそん)なのでしょうか?
イメージの自由(10.23)
宮崎アニメがなんだか巷を席巻しているようです。
でもどうしてあんなに人気があるの・・・???
宮崎アニメお得意の、夢の中みたいにゆっくりな場面進行も、妙なリアルさを感じてしまう人物描写も、私にはピンときません。
逆になんだかコワイな~って、感じたりしちゃったり。
初期の『アルプスの少女ハイジ』は大好きだったんですけれど・・・。
そうしたら先日の日テレの某番組で、宮崎アニメの人気の秘密をヒトの脳のイメージ機能から分析していました。
その番組によれば、宮崎監督はアニメの画面上で、ヒトが脳の中で世界を捉えているイメージにかなり近いものを提示できているから、観客はその世界にひきこまれやすいということでした。
・・・ん?それって、見る人1人1人が心の中で自由にイメージする像を、あらかじめ画一的に用意して、外から与えてしまうってこと?
ってことは作り手は、見る人の感性にハナッから期待してない、っていうか、感性が鈍ってしまっている現代人のために、インスタントな共感誘導を仕掛けてくれているということなのかも。
あまりよく理解出来ていないのにこう言うのもナンですが、宮崎さんのアニメには、ワタシ自身の空想をひろげる隙間がないどころか、なにか強制的なものすら感じて、それで怖いんだってこの番組を見てなんとなく合点しました。(← 少数派のヒネクレ?!)
それにひきかえ(っていったら失礼かもしれませんが)サンライズさんのある意味、相当デフォルメされているのに平面ぽさは感じられない独特なタッチの絵とか、場面展開の仕方とか、随所にあらわれる潔いスピード感の表現には、なんていうか、心の中が驚いて(?)、自然とワクワクしてきたり、こういうことかな、ああいうことかなと物語の細部を想像し始めたりして、観る度ごとに楽しいな~と思います!
デフォルメされているからこそ、意図的に省略、割愛されている細部を埋める楽しみは、観るものの想像力に委ねられている。それは、人文画や浮世絵などにもあらわれる日本の感性表現の一つの系譜に沿ったものなのかも知れませんね。
ブラックホール(11.1)
先日、偶然見たNHKスペシャルで、ブラックホールについての最新仮説が紹介されていました。
よくわからなかったけど、とってもおもしろくて(?)最後まで見てしまいましたが、見終わってからふと思ったこと・・・。
ブラックホールはあらゆる銀河の中心にあって、銀河を彩る星々とは対(つい)に成る性質(大雑把にいえば、「光を吸収する」 対「光を放出する」)を持っていて、それで銀河(宇宙)全体のバランスが保たれているらしいです。
ブラックっていうと、つい「悪い」イメージになりがちですが、宇宙のバランスを構成するものには善も悪もないですよね。
全てのものは運動しているのだから、常に変化し続けていて、生まれるものもあれば消えていくものもある。そんな中で、その変化を生み出す運動を不自然に速めたり、逆の方向に戻そうとしたり、変化を止めようとしたりする力が働くとしたら、それが「悪」なのかもしれない。そしてその作用は、大局的なバランスを維持し、回復しようとする作用により結果的には消滅していくのかもしれないなぁ~。
私たちは、少なくともヒトという種が自らの手で消滅してしまう様なことのないよう、自らの行動を謙虚に顧みると同時に、明らかな「悪」の行為に対しては、ヒトの社会の中での因果がどうであれ断固とした対応をとる、そんな勇気が必要なんだろうなぁ~。
馬、戦車、そして車(11.3)
『太陽の馬 月の馬』を気ままに訳し始めて、欧米の言葉のもつ響きと日本語の語感に、奇妙な一致を感じてしまう今日このごろ。
例えばニ輪戦車(chariot)の語源でラテン語のcarrus(two-wheeled wagonのこと)という言葉があると、辞書に載っていましたが、これってなんかカラスと似てません?
あっ! 神武の東征を先導した「八咫烏=ヤタガラス」って、もしかしてヤタのカラス、ヤタの車ってことだったりして?
そうなると、「八咫鏡」というようにも用いられている「ヤタ」というのは、神、特に太陽神を表わす言葉だといわれているので、太陽神の車っていうイメージも浮かんできます。
いうなればヤタガラスは、火焔をまとった軍神の戦車 chariot of fire 、って感じなのかも・・・?!
ハッ!「ヤタガラス」という名を今に伝える日本は、世界に名立たる自動車技術を持つ国だけど、実はそんなつながりがあった、っていうのはどうヨ?!(笑)
な~んて、またいつものようにとんちんかんな想像の連鎖が始まってしまいました。
そんな一方で、最近つながり始めているのは「馬」です。(笑)
ローズマリー・サトクリフの本のタイトルにとどまらず、長らくお邪魔させていただいている『GEAR戦士電童』の公式掲示板でお世話になっている方のお名前が馬つながり(?)だったり、馬好きの方がいらっしゃったり。
そしたら今日届いた『土曜アギト倶楽部』で、あの「北條さん」の家にローズメリーという名の老馬がいるって書いてあるのを読んだ時には、本当にびっくり♪
そもそも私自身は、車にも馬にも、あまり興味のない方なのにかなり縁を感じる今日このごろです。
・・・そういえば、私の高校時代からの親友の、1人は自分の馬にのって西日本を長野から九州まで横断してしまったほどの馬好きだし、もう1人は車会社のデザイナーの御主人がいたなぁ。
結構、車と馬に因縁ありかも。
悲劇の現場(11.24)
マンハッタンを訪れる日本人観光客の姿がほとんど見られないことに、ホッとしているという日本の新聞記者の感想を新聞で読んで、なにかが引っ掛かってしまいました。
この記者が言いたかったのは、従来日本人観光客は買い物と見物のために海外旅行をしているから、その感覚で崩壊した世界貿易センタービルを見物に来られたら、それこそ火事場見物みたいで恥ずかしい。だからそのような自国の人たちを見かけなくてうれしい、ということなのかもしれません。
マンハッタンの人々の日々の営みを含めて、悲劇の現場を物見遊山気分で覗いてみたい、そんなメンタリティーの日本人ばかりであるのなら、理由はどうあれ彼の地を訪れる人の数がわずかになったことは確かに歓迎すべきことでしょう。
でも、本当に日本人の多くが抱く心情はそういうものなのでしょうか。そして、日本の人々がマンハッタンを訪れなくなった理由は、どこにあるのでしょうか。
もし、日本人には、悲劇のただなかにいる人に対して、「励ます」よりも「そっとしてあげる」ほうを良しとする行動規範があるとしたら、このような時期にマンハッタンを訪ねることは不遜な行為として自制されることでしょう。そうであるはずなのに、日本人の観光客がたくさん見られるとしたら、確かに日本人の価値観からすると恥ずかしい、と言うことになります。
逆に、「そっとしてあげる」よりも「励ます」ほうを良しとするメンタリティーがあるのなら、日本人観光客の姿が見られないことは悲しむべきこと、と言えるでしょう。航空機搭乗中や現地での受難など、命の危険がある場所には近づきたくないという感覚が優先されていることになるからです。
一方で、現地で暮らす人々はどのように感じているのでしょうか。
もしかすると現地の人々は、逆に観光客にはできるだけたくさん来て欲しいと思っているのかもしれません。
何があったのかはその場に行けばより深く感じられるものだから、出来るだけ多くの国々の人に来てもらって共に悲劇を感じて欲しいと、アメリカ人なら思うかもしれない。
あまりに悲惨な経験からストレスに打ちのめされているマンハッタンの人々を励まし、亡くなった人々への追悼を行うことは、観光気分でできることではないけれど、ニューヨークへ旅行したことのある日本人のほとんどがそういう気にもならないでいるとしたら、なんだかやっぱり残念な気がします。
12月の出来事(12.4)
おとといの日曜日、次男坊の幼稚園で発表会がありました。
なぜか9匹いる「7匹の子ヤギ」を食べちゃう「狼さん」を、歌ったり踊ったりして演じる6才児。(笑)
最後にはお腹を割かれた挙げ句にヤギさんたちと仲直りしちゃうストーリーに「これでいいのかな~」って苦笑いしながら観ていたnobukoとその夫でした。
「今年は去年と比べると皆楽しそうに出来たわネ。去年はちょっと元気がなかったけど、風邪が流行っていたせいかな?」つい去年と今年の出来を比較してしまう母(ワタシ)に、「違うよ! 去年は皆、緊張してたんだヨ。」と次男坊。「そうなの? じゃあ今年は皆、緊張してなかったんだ。」「うん! だってミチヨ先生が『緊張してる人~、手を挙げて~♪』って言った時、手をあげたの僕ひとりだったもん!」
アハハ★ そうだったのネ~♪
そんな楽しいことがあった一方で、我が家の老犬タップは最後の時を迎えていました。
腰が落ちて散歩が出来なくなってからというもの、昼間日だまりの中で眠り、夜になるとフォンフォンと鳴き出すという毎日でした。ご近所へ迷惑をかけるということもあって、動物のお医者さんに相談して鎮静剤を使い始めていましたが、薬の効き目も長くは持たないのでnobukoの夫が夜中に3度くらい起きては薬を足していました。
鎮静剤は犬の命と引き換えになるものだとお医者さんの説明を聞いていたので、あげる度に辛い思いをしながら・・・。
そして、昨日はとうとう薬も効かなくなり、昼間から怯えて鳴いてしまうタップを長男や次男坊と交代でなでてやりました。そして子供達が眠ってしまった後で、帰宅したnobukoの夫と二人で動物病院へ連れていきました。 時間外なのに快く応えて下さった先生に最後の段階(安楽死)を託し、nobukoは病院の外で待っていました。見上げた空には星が瞬いていました。
翌朝は雨の降る音で目覚めました。
昨夜はあんなに星がきれいだったのにと少し意外に感じながら、急に冷え込んだ朝に、タップが過ごした最後の数週間が小春日和だったことを感謝しました。
朝一番で迎えに来てくださった動物霊園の方に亡きがらを預け、火葬にしてもらうのを家で待ちながら、いつものくせでスイッチを入れた『電童』の楽曲入りMDを聴くうちに、まだ学生だったnobukoの夫が駅で拾った子犬にふたりでタップと名づけた時のことや、結婚してタップとの散歩が始まった頃のできごとをなぜか思い出していました。 本当にあっという間だったな~って・・・。
タップはかっこいいワンチャンではなかったけれど、ちょうどひたいのまん中にハートのマークが付いていたっけ。
若い頃はなんども柵をすり抜けて勝手に散歩に出ようとしていたから、きっと今頃は自由になれて喜んでるかもしれないな~。・・・でもしばらくは自分の小屋のまわりにいそうな気がします♪
<2001.12.5 追記>
実をいえば、今回ワタシがなによりも辛かったのは、弱って苦しそうな声を出すタップを庭でさすっている時などに、近所の大人たちが大声で立ち話をして笑ったりしていたことなんです。
すぐそばで大笑い・・・ホント辛かった・・・。
近所の子供達は心配してくれたり、新聞やさんが「大丈夫?」って長男に声をかけたりしてくださったんですけれど。
気の付かないはずのない大人たち(nobukoと同年代から40代後半くらい)がアレじゃあって、なんだか情けなくなってしまいました。
あげくのはてに今日、挨拶がてらに「見ている方が辛かったわよ。あれじゃあ生きてるのもどうかなって感じよね。」って当の奥さんに言われた時には、正直ムカ~ッときちゃいました・・・。
家に入るや否や『電童』の歌CDをかけて、25話を観直して、なんとか気持ちをおさめることが出来ましたが☆
つくづく思いました。そんなデリカシーのかけらもないことを口にするくらいなら、何も言わないでいてくれた方がどれほどましかって。まぁ、世の中そんな人ばかりじゃないってことはわかってるんですけど★
自分もそうならないように気をつけなくっちゃ!