2006年のひとりごと

『デスパレートな妻たち』そこまでやるか・・・も!? その2(1.6)

リネット。 

名前の響きから、洗えば洗うほど風合いの増すリネン(亜麻)のような人なのかな? と思って観ていたワタシなので、リネットが洗いざらしのコットン(木綿)のようなここ一か月間のエピソードは、ちょっと意外な感じです。 

例えば、気だてのいいチャイルドシッターのクレアを、あんなに簡単にクビにしちゃうなんて!

せっかくヘッドハントまでして来てもらった彼女なのに。

深夜ついつい洗濯機に着ているものを全部放り込んで、丸裸のまま部屋に帰ろうとしちゃったとはいえ、ご主人に見られたからっていくらなんでも・・・ねえ★

だったら最初から若い女の子じゃなくて、おばさんシッターにすればよかったのに。

あまり先のことまで考えられなくなっちゃうほど、リネットもデスパレートってことなんでしょうけれど。 

 

それから年末放映分のリネットと隣人のおばあさんのエピソード。

 

人の家の中までズカズカ入ってきて、アンタの坊主たちは泥棒だと決めつけるおばあさんを、食えない相手と見てしまうリネット。

自分へのバレンタインのプレゼントにと、息子たちがおばあさんの家のものを盗んでいたとわかったときも、謝る時には手紙を書かせるのではなく本人たちを寄こせというおばあさんに、一層頑(かたく)なになってしまうリネット。

だから、謝罪のために子供たちを伴っておばあさんの家を訪ねた時も、子供たちと一緒にあがるかと水を向けるおばあさんを拒んで外で待つリネットには、おばあさんも母親であることが見えない。

一方で、居間に座らせピーナッツ菓子を勧めながら静かに教え諭すおばあさんには、目の前のちびっ子ギャングトリオが12歳の時に病気で亡くなったやんちゃ息子と重なって見えている・・・。

 

ジーンときました。

重なりあってるはずのものがすれ違ったりぶつかったりするのも、リネットとおばあさんが息子に一方(ひとかた)ならぬ愛を抱く母親同士だからとは!

・・・・私もコットンみたいにガサガサにならぬよう、気をつけなくっちゃ☆(笑)

 

子供と家庭を守ることにデスパレートな主人公4主婦と、自分の遺伝子(ジーン)を残そうとする本能に踊らされてる(?)男性陣。

彼等が起こす数々のとんでもないFAULTが、テレビのコチラ側で見ている私たちに次第に許せるものに見えてくるのは、なんでだろう?

きっと、お互いの内なる欲求にどこかで折り合いをつけなければやってけない、そんな日常への共感と、それでも最後は女性が要(かなめ)ってことを再確認できる女性上位ストーリーだから?

 

そう思わせておいて、また凄~いどんでん返しもありそうなのが「デスパ」。

ウ~ン☆後半も見逃せない。(笑)


デスパレートな母の手慰み(1.21)

全話数の2/3が経過した「デスパレートな妻たち」、今週のタイトルは「THERE WON'T BE TRUMPETS」でした。

ブリーの子育ても、リネットの助言も、スーザンやガブリエルの判断も、どれもが空回りしてしまう。

デスパレートな日々のなかで、自分なりの正しさを追い求める彼女たちに、まだ天のラッパは鳴り響かない。

それでも真摯に生きる美しい彼女たちを待ち受けるフィナーレには、どんなファンファーレが鳴り響くのでしょうか。

いよいよ楽しみになってきました♪

 

さて、日本でデスパレートな日々を送るワタシ(笑)は、最近投げ文グセがぶり返して来ました★

別にどこかで取り上げてもらおうなんて思ってないのですが、ひょっこり引用されてたりするとヤッパリ面白い♪

今日は、新聞に載ってた女流漫画家による時事解説マンガを読んでの感想を、その新聞とそこで取り上げられてた山谷えり子さんのHP宛に送っちゃいました。その内容はというと・・・

 

前略

今朝のさかもと未明さんの漫画「男女共同参画社会」を拝読しました。

「女性の社会進出はまず家電製品の発達と産業構造の変化、男性の理解のおかげじゃない?」との山谷さんの台詞から、我が家では次のような会話が生まれました。

 

私 「隣の奥さん(看護師さん)も、ずっと前にお母さん(私)にそういうこと言ったのよね~★ 今の時代の女性は、税金を払うために働くべきだって。便利な家電をどんどん買って、2台目の車とかも買って、旦那さんの理解があればできるはずでしょ、って。」

夫 「・・・某新聞の受け売りだね。いつもの。」

長男(中1)「ねえ、それって逆だよね。」

私 「えっ?」

長男「家事に時間がとられなくなったから、子供とのコミュニケーションの時間ができたってことになるはずじゃないの?」

 

山谷さんのお母さまや私の主人の母のように、家事が大変だった時代でも子供たちへの愛情を最優先させることのできた立派な女性たちは、人間の鏡だと心から思います。

でも、私のように不器用だったり、つい自分中心に考えてしまいがちな母親たちもいるわけで、そんな人たちが家事やそれ以外の労働(農業だったり、炭坑で働いていたり?)でくたくたに疲れ果てれば、子供たちへの心配りは置いてきぼりになってしまったことでしょう。

今の時代に生まれて、こんな私でも子供たちの話を聞くゆとりを持てることに感謝しなければと、改めて思った朝でした。

 

さて、昨今話題の「男女共同参画社会」ですが、その議論を端から見ていると、子供たちの立場が欠けているように思えるのが残念です。

結局、外で働いて評価してもらいたいという今時(?)の女性たちの価値観と、そこから生じる自己主張ばかりが目立ち、次代を託す子供たちにとって何が望ましいのかという視点がスッポリ抜け落ちてしまっているのではないでしょうか。

 

たとえば、子供の安全を確保するためには親が登下校に付いていくことも必要だとする意見に対して、「自分の子供だけ守ればいいのか」「個人主義を助長するものだ」という反論がまことしやかに主張されてしまう現代の日本。

しかしそういった意見は、実は働きに出ていて子供の登下校時には家にいない母親たちの立場からのもののように見受けられます。

自己実現や生き甲斐のため、自分の時間は自分のために使うものとばかりに家や家族から離れ、そうして目の届かない間の子供の面倒は地域社会という他人に預けてしまうという生き方のほうが、「個人主義」そのもののはずなのに。

 

こんな時代に欠けているのは、家族を成り立たせようとする知恵なのではないか、そんな思いが募る今日この頃です。

もちろん、家族を成り立たせるために女性が外で働くという選択肢もあり得るでしょうし、女性は外に出ず家事に専念すべしとの考えを他人に押し付ける気は毛頭ありません。

逆に、「おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川に洗濯に・・・という時代は終わった。洗濯は機械に任せて、おばあさんも山へ芝刈りに行くべきだ。働きもせずに家でのほほんと暮らすのはけしからん。」との主張が押し付けがましく喧伝される今の世相を見るにつけ、桃太郎を授かったおじいさんとおばあさんは、その後どのようにして暮らし、どのように桃太郎を育てたのかに思いを馳せてほしいと思わずにはいられません。

そういえば、「自分のようになぜできない」なんて台詞は、主人の母は一言もいいませんでしたっけ。

そんな人だから、私は今でも尊敬の気持ちで介護にあたれますし、子供たちも心をこめて歌を歌って聴かせられるのだと思っています。

 

家庭、とくに子供の情操を育む家族と共に過ごす時間の大切さを社会に届ける役割を、政治やマスコミなどで活躍する女性に期待するしかないという矛盾を感じながら、貴紙の紙面をめくる毎日です。

 

かしこ

 

ところで、「デスパ」でトランペットという言葉について考えていたら、有坂さんの歌がなぜ好きなのかがわかったような気がしました。

有坂さんの歌声って、まさに天からのトランペットの響きのイメージ♪

「Life Goes On」の英語詞のところなんて、まさにそのもの☆

 

フィーリングで有坂さんを起用した福田監督はさすがだなぁ!


荒川選手の顔は長男に似ている(笑) (2.27)

「ところで昨日ウチの長男が、『SEEDの女の子はわかるんだけどさ~、男の子ってまるで女の子みたいじゃん。本当じゃないよね。』と意見してきました。『そうかもね~』と言いながら、いつもこの時期になると必ずチェックし始める(?)フィギアスケート番組を何気なくつけたら、ウワ~ッ!! SEEDキャラみたいな男の子が、ホントに実在してた~♪TVに映っていたのは女似ー、じゃなくって(笑)ジョニー・ウィアー君☆今年は日本の安藤さんとアメリカのジョ二ー君に大注目の、我が家です。(笑)」

 

と書いたのが2004年の11月。

あれから一年しかたっていないのに、オリンピックに出ていたジョニー・ウィアーは、「君」ではなくなっていました。

顔ももうSEEDキャラではなくなってました。(笑)

でもその演技は素晴らしかった!

それなのに5位というのが納得いかない!(笑)

1位の選手は試合中の演技はジャンプばかりで、全然面白くなかったし。

採点法の変更を提案します!

 

安藤美姫さんの滑りは、演技力に磨きがかかってますます魅力的でした。

あの勢いと、憂いを感じさせる表情がたまらなく好きです。

一方、nobukoの夫はにわか荒川さん解説者と化し、金メダルの演技をベタ褒め★

でもワタシ的には、最後の荒川さんの演技は物足りなかった。

確かにパーフェクトだったかもしれないけれど、自分のベストをぶつけていかなかった守りの姿勢にちょっとガッカリ。

スルツカヤやコーエンの調子がよければ、金は無理だったと思うのはワタシだけ?

 

アメリカで見事ペアで復活してみせた井上選手、素晴らしかった♪


表現せずにはいられない♪(3.2)

トリックスターの親分から、「ジムファイター」という言葉を教えていただきました。

たしかに、そういうのってあるかもしれませんね。

でも、ワタシがコーエン選手やスルツカヤ選手に感じた「調子がよければ」というのとは、ちょっと違うのかも。

彼女たちは二人とも、二日前のショートプログラムの本番ではパーフェクトでした。そのせいで、かえって緊張が高まったっていう解釈もあるのかもしれませんが、今回はそうではないような・・・。

ワタシは2人ともフリーの当日、女性が避けて通れない生理的な波があったのではと思っています。

女性に限らず人にはそれぞれのバイオリズムがあって、誰しも自分にとっての最高のコンディションで本番を迎えられることの方が少ないのかもしれません。そうはいっても女性の場合ははっきりとしたインパクトがありますから。

もちろん、それを理由に「金メダルはシーズン通しての総合得点をもとに与えるべきだ」などというつもりは毛頭ありません。

オリンピックは各種目ごとの専門大会とは違う舞台であり、その舞台にのぼること、そしてさらにはそこでの頂上に立つことを目標に皆さん励んでこられているわけでしょうから、その場その時の演技が全てであることには誰も異論はないと思います。

それだからこそ、3人がそれぞれ満足行く演技をした中での金メダル争いであれば、もっと面白かったのにと残念でした。

 

さて、改めて五輪のフィギア女子をふりかえると・・・。

 

【安藤美姫さん】

安藤ファンのワタシですが、実はあまり4回転には興味がありません。

今回の4回転も、周囲の期待に応えようとして無理にやろうとしているのでは? と心配でした。

マスコミの彼女の持ち上げぶりも度を超していて、正直なところトリノはあまり期待していませんでした。

でもフリーの4回転(への挑戦)を観て、彼女の技への心意気に、心の底から拍手喝采する自分がいました!

失敗したのにこう言うのも変ですが、本当に素晴らしかった!

その後の演技も、ワタシには投げやりには見えませんでした。

これがファン心理、ってやつでしょうか?(笑)

終わった後で、コーチに「4回転が飛べて良かった~♪」と言っていた彼女。

他人事ながら、18歳の素直な心をそのまま受け止めてくれる先導者に出会えて本当に良かった! と思います。

 

ところで、ワタシが好きな安藤選手の「憂いを感じさせる表情」というのは、演技中もそうですが、試合に望む前や彼女の全体的な印象も含んでいます。

自分を持ち上げる言葉の渦に呑まれる心地よさと苦しさ、そんな自分の気持ちと常に正直に向き合おうとしながら、それでも周囲への笑顔は忘れまいとする、その姿勢です。

そして彼女がその姿勢を取り戻すことができたのは、アメリカへ行ったからなんだろうなと思っています。

日本にいたら周囲の重圧で、本来の自分~スケートが好きでたまらない自分~を見失ってしまったでしょうから。

その点ではもしかしたら、若い真央選手と比べないで!と言っていた荒川選手も、そうだったのかもしれませんネ。

 

【荒川静香さん】

安藤選手同様、アメリカで修行をした(?)荒川さんも美しい花だったとは思います。

ワタシは、アメリカなら全てOKで日本はダメダメとは思っていませんが、少なくとも日本という社会は個性を育みにくい社会なんだなと実感しちゃってるクチです。そんな土地に生まれ落ち、そこから芽を出し花開こうとする本当に強い種は、自らが居るべき場所を求めて飛んでいき、本物の花になるのでしょう。

でもあのフリーは物足りなかった。

せめて「荒川イナバウアー」をもっと(3秒間くらい)魅せて、新採点法にチャレンジして欲しかった☆と思うのは、点数を考慮しない素人の我侭でしょうね。(笑)

イナバウアーは置いておくとしても、じゃあなぜ、何が気にいらないんだろう?と考えてみるに、一見マイペースで冷静に見える彼女が、実は周りを意識しすぎてしまっている(ように見える)ところが、自分と似ていて歯がゆいからかも?!(笑)

真央ちゃんへの対抗意識を露にした発言もそうですが、あのフリーの演技の前も、音楽を耳に当てて一切の雑音を遮断していたのはそれだけ周囲に影響を受けやすいことを自覚しているからでは。

もちろんそれが悪いというわけではありませんけれどネ。

ものすごい結果をきちんと出したわけですし。

 

こんなことを夕食をとりながら喋っていたら、nobukoの夫から反論されました。

 

「荒川選手が『メダルを意識しなかったのがよかった』っていうのは本当だと思うよ。でも、きっとあの言葉の真意は『意識しないで臨めた』ということなんじゃないかなぁ。ある意味あの瞬間が彼女のピークだったんだよ、きっと。オリンピックという、フィギュアファンだけではない全世界の人の注目を浴びる舞台で頂点に立つことを目指してきたわけでしょ。その結果として自分自身のピークを極めんとした時に、それが世界の頂点と一致するかはどうでもいい、っていうかあまり意識にのぼらないって感覚になったんじゃないのかな。」

「でも、技の難易度を下げてきてたでしょ。あれはメダルを意識してたってことじゃないの? 佐野さんやら伊藤さんやら往年のメダリストたちも、テレビでそう言ってたよ。」

「それは違うんじゃないの。人間って、調子が良ければ良いほど要素ではなく全体で物事を捉えられるんだよね。それが、自分の身体感覚であればなおさら。つまりあの演技、荒川選手は三回転飛ばなきゃ点数にならないからって組み入れてた技でも、二回転だけのほうが流れにのれるからそれでいい、っていう身体の感覚に正直に滑ってたように見えたよ。言ってみれば、海老一染之助・染太郎の『いつもより多くまわしております~っ!』っていうやつの逆だね。」

「じゃあ、『荒川イナバウアー』が短かったのは? 自分らしさの表現として無理にでも組み込んだっていうなら、あれをもっと長く、きっちりやれば良いのに。」

「別に『荒川イナバウアー』以外はやりたくない、って訳じゃないんでしょ。一定の時間の中に求められる要素を組み込んで構成した一連の流れ、それが彼女の表現なんだから、その全体のバランスの善し悪しを自分で体感しながら表現した結果があの演技だった、それだけじゃないの?」

 

ま、本当のところはご本人しか判らないんですけどね。

 

【村主章枝選手】

荒川選手への闘志むき出しだった(?)村主選手も、ほぼミスがない演技をしただけに、明らかなミスをしたコーエン選手やスルツカヤ選手にメダルがいってしまったのは疑問でした。

でもワタシにとっては、以前からあまり関心が向かない選手。

というわけで、ここでは採点法の変更を要望するだけにします。(笑)

 

 

かく言うワタシの一番のお気に入りは、昔も今もカタリナ・ビット選手。

彼女の演技をテレビ越しに初めて見たとき、鳥肌が立ちました!

それ以来、彼女のような選手、というか演技手はいないものかと、夜中でも起きて観るフィギュア好きとあいなりました。(笑)

そしてそんな素晴らしい人が日本から出てきそうな気配に、ワクワクしてしまう今日この頃なのです♪

今回の金メダルによって日本のフィギュア界はより活性化するんでしょうネ。

次世代が続いていくものは、見ていて安心です♪

スポーツと結婚した女性アスリートが、いつまでも肉体の限界に挑み続ける姿を見るのは正直ツライ・・・。


『デスパレートな妻たち』そこまでやるか・・・も!? その3(3.16)

ブリーの子育てモットーは、「目の前に石ころがあればそれを全て取り除いてあげる」らしい。 

でも子供って、石ころを蹴飛ばしてみたり、飛び越してみたり、拾って遠くに放ってみたりしたいもの。 

というわけで、ブリーの長男の不幸は、目の前の石ころがきれいさっぱり片づけられちゃってること。(笑) 

だから彼は、その不幸から逃れようともっとたくさんの、もっともっとたくさんの石や岩の転がる荒野を目指す・・・。 

 

一方、トラウマから子供に手をあげることを恐れつづけるリネット、の息子たち。 

こちらはこちらでそのギャングぶりに先行きの不安が募ります。 

それでもそんなに深刻にならずに見ていられるのは、リネットが「ブリーのケースは反面教師」とばかりに、子供をどっかに預けて会社勤めに逃げ出すようなお母さんじゃないから。 

 

で、このままでいくとリネットにはそこそこのハッピーエンドが、ブリーには悲劇の結末が予感される「デスパ」。 

でも、川辺に住む者を溺れさせる洪水も遠くの枯れた土を潤すように、アンドリュー(ブリーの長男)を縛るほどのブリーの母性がザックやリネットのチビッコギャングたちへの恵みになる、というエピソードが合わせて語られてきた物語ですから、そう単純には終わらないハズ。 

リネットの母としての弱点をブリーが補ってくれたように、今度はリネットがきっかけとなってブリーと長男のイタチゴッコがソフトランディングしていくのかも!? 

 

なんて思いながら迎えた最終回。

 

パン・デ・カンプ家に訪れた予想どおりの結末。 

レックス(ブリーの夫)を死に至らしめたジョージ(ブリーの友達)が悪いのか、ジョージを夫婦の溝に引き込んだブリーが悪いのか、ブリーを失望させる不倫をはたらいたレックスが悪いのか、レックスを浮気に走らせたブリーが悪いのか・・・。 

医師であるレックスが自らの命を縮めた薬剤師ジョージを見下す言動も、愛する妻の心を奪われまいと焦る気持ちからだったと思わせる最終回の演出がウマイ♪ 

 

スカーボ家に訪れた予想どおりの転機。 

家庭に入ったストレスで、内心バリバリ働きたくてウズウズの自分に苦悩していたリネットだから、夫の失業は大歓迎の展開かと思いきや、いざ子供たちと離れることになって、その意味の大きさに戸惑う彼女の姿を描く最終回の演出がウマイ♪

 

ソリス家に訪れた予想どおりの展開。 

周囲の男を翻弄するばかりで、「HOUSEWIVES」の物語の主役の一人なのに、最後の最後まで家事をやってるところが描かれなかったガブリエルがウマイ♪(笑) 

でも、結果はどうあれ子育てに一生懸命な三人の主婦とあそこまで気が合う彼女のこと、きっと赤ちゃん生まれたら育児に夢中になっちゃうタイプでは? 

 

メイヤー家に訪れた予想外の危機。 

ピストルを構えるザックに囚われの身となってしまったスーザン! 

そこにポール(ザックの育ての親)から全ての(?)事情を聞いたマイク(スーザンの彼氏&ザックの??)が!! 

悲劇の宿命を負うザックと、そんな彼を胡散臭いと思うだけのスーザンは・・・ってところで終わってしまった第一シーズン。 

物語の核心を第二シーズンまで堂々と引っ張る最終回の演出がニクイ♪ 

 

さて、ウィステリア通りで日常茶飯事のように起きる事件は皆、世の中との向き合い方&受け止め方が異なる人々が織り成す人間模様を、コミカル&シニカルに描き出すための舞台装置に過ぎない、と思って観ていたのはワタシだけ? とチョッピリ寂しかったのは、NHKBSファン倶楽部「デスパ」専用掲示板でワタシの投稿だけひとり浮いていたからでしょうか。(笑)

どの投稿者も「アメリカは恐い」「日本はあそこまでにはならない」「誰々はここがなってない」とか、そんなウンチク感想ばかり書き込まれていた半年でした。

そのくせ皆さん、「次回が楽しみ♪」って夢中でいらっしゃったんですよね~。

ファン心理とはこんなもの!?(笑)

でもですね~。

現実でもあの街で起きている程のことではないにせよ、身の回りにいろんな「ねじれ」は生まれ、その度にいろんな憶測やそれに基づく動きが起きてるじゃんと思うワタシ。

「ねじれ」の真相が客観的に明らかになったり、その結果当事者同士が判りあえるなんてことはまずないわけで、メアリー・アリスだけがあの世から全体を眺めているというスタイルは、物語にこれ以上ないリアリティを与えていたと思うんですよね。 

作者が何を意図してこの物語を創っていたのか、なんてことにはファンの皆さんは関心がないの?(笑)

 

「ねじれ」る一方にみえるウィステリア通りの日々☆ 

そんな中であの主役主婦4人組が繋がっていられるのは、仲間はずれにされることを恐れて互いに媚びたり寄り掛かったりしている関係じゃなく、違うもの同士の「間(ま)」をとったコミュニケーションができるからかも♪ とチョッピリ羨ましくもあった半年間でした。

電童公式掲示板が懐かしい~。(笑)

 

そんな気分でいたところ、またやっちゃいました☆

「デスパ」掲示板がRead Onlyになる15日はラスト投稿デー。 

そう記憶はしていたものの、Macを開いて掲示板を覗いたのがお昼の10分前でした。 

そしたらそこには「正午まで」の文字が! 

慌ててコンロで焼いていた鶏の手羽元を引っくり返しに行って(?)、それから言い足りなかったことを書いて投稿! 

字数制限をクリアして送信完了したとたんにお昼の時報が! 

ま、間に合ったのか!?

再び3時過ぎ頃掲示板を覗いてみたら、一番上に載っていました☆(当たり前か?) 

無欲で金を取った荒川選手の心境がわかりつつある今日この頃です。(違★)

 

ところで、「デスパ」NHK公式サイトの「しゃべり隊」コーナーに登場されていたメアリー・アリス役の小山茉美さん!!

彼女のザックへの愛は、まさにメアリー・アリスそのもので、嬉しくなりました♪ 

ワタシもレイみたいに「お母さん」って呼びたくなりました☆(←番組が違っ!! 笑)

それから「第2シーズンのスカーボ家は、なぜか子供が5人に増えています。」とか、 「トム(リネットの夫)の子育て本がベストセラーとなり、職場復帰してストレスを抱えていたリネットもめでたく退職。」 って、「しゃべり隊」コーナーでとっても共感&大笑いできる予想をされてたトム役の郷田ほづみさん!!  

ボトムズのキリコっていうキャラを演ってらした方だって、nobukoの夫に教えてもらいました。(笑)

 

いずれにせよ、この番組を見続けていたお陰か、ゴールデン・グローブ賞を初めて見て、心から楽しめたのは収穫かも。

あの場所に、福田監督と両澤さんご夫妻が外国映画賞枠で呼ばれる日はそう遠くない!と思っているのはワタシだけ?(本気)


ダ・ヴィンチ・コード(5.24)

ワタシはクリスチャンではありませんが、この手のお話に登場する様々な説には興味があり、いくつかはどこかで聞きかじったことのあるものでした。(そういえば以前、安彦良和が描いた「イエス」像も興味深いものでしたっけ。)

 

そんなワタシが、

 

「これこそが『キリストの真実』!」 なんていう陳腐なお話だったら途中で止めちゃおう

 

と思いながらも読み始めた「ダ・ヴィンチ・コード」。

絶体絶命の危機に際しても暢気に構えてる主人公・ラングどんに、

 

やっぱりこの物語は売れ筋の曲に、無理矢理つまんない詞をはめ込んで歌に仕立て上げた類(たぐ)い?

 

なんて思い始めたセッカチなワタシを思いとどまらせたのが次の台詞。

 

「ダ・ヴィンチは自分のしたいようにしたまでだ。」

 

中巻のラストで主人公がそうつぶやいた時、

 

これはキリストの聖杯の謎を追う物語と見せかけて、実は別のことを伝えようとしているストーリーなんだ♪

 

と俄然面白くなってきて、後はラストまでイッキ読みでした。(笑)

 

「聖なる杯」が王家の血を引くマグダラのマリアを指すという「事実」を知っていながら、そのお墓(というか遺骨?)の在り処を、人を殺し、裏切ってまで知りたがった悪党・ティービング。「真実」の物証を手にすることで、世界をどうにかしようと今さら企む必要がないほど俗世界の権勢を誇る彼を完全な悪役とおいたこの物語の結末に、

 

新訳 ヨハネによる福音書 20章 24節に記されている「デドモと呼ばれているトーマス」のエピソード

 

を思い起こしたのはワタシだけでしょうか。

登場人物たちそれぞれが自分のしたいようにしているだけ、って描いてみせたところがリアルな物語だった「ダ・ヴィンチ・コード」ですが、そんな中でも

 

父と慕うアリンガローサ司教に報いることが自分のしたいことである「凶暴な」シラスと、彼を「自分の殺人の実行犯」として手のひらの上で踊らせるティービング

 

の関係は、ワタシたち人間が等しく宿しているものを見るようでもあり、神とキリストの関係を転写した陰影のようでもあり、シラスの最期を読んだ時には涙を流していたワタシ。ティービングによって示される「人のダークサイド」こそがこの物語の主題であり、「ダ・ヴィンチの残したコード」やそれが示す「真実」は主材に過ぎないってところがワタシ的にはツボでした。

 

さて、物語のオチのつけ方についての謎をひとつ、ふたつ。

聖杯とはキリストの血であるワインが注がれ、それにより満たされるもの。

すなわち、キリストの子を宿したマグダラのマリアを指す、という解釈は素朴に面白いですし、それを信奉し続ける人々がいることも事実でしょう。

でも、それと

 

キリストの血脈を王統の如く奉ることとは違うような気がするし、そうすること自体がキリストの示した世界観と矛盾する

 

ように思われます。にもかかわらず、ラングどんと結ばれるルーブル館長の孫娘・ソフィーがイエスとマグダラのマリアの直系の子孫であるメロヴィング王家の血を引く者だった、とするのはなぜ?

 

それから、この物語ではマグダラのマリアを「聖杯」に擬することから始まり、聖杯の継承とイエスに連なる女系の血脈をなぞらえていることがうかがわれますが、受け継がれるべきは杯それ自体ではなく、それを満たす血ではないのかなぁ。

 

聖なる血を満たしているからこそ、その杯は聖杯たり得るのであって、満たす血はイエスのものでしかあり得ないはず。

 

その血を換えずに新たな杯で受け渡していくことが聖杯の継承ということであれば、聖杯であるイエスの女系子孫はイエス以外の男性と交われないことになります。ということは、彼女たちは常に女児を処女懐妊してきたということになり・・・ってことは、

 

ラングどんがソフィーと結ばれたとしても聖杯の継承には関われない!?

 

そう思って読み返すと、ラングどんって女性に淡白なキャラって感じに読めなくもないですね。(笑)

 

そもそも物語の発端であるルーブル館長が、自分が歴史上有数の秘密を守り伝える唯一の人間になってしまった~、何か方法を見つなければ~、とあれ程ガンバッたにもかかわらず、ラストで奥さんがあっさりとシオン修道会の次期幹部になっていた・・・っていうところからも、この物語世界の中での男女の重みが見て取れます。

 

アーサー王の聖杯伝説に登場するランスロットだと思えば浮かばれるかな、ラングどん。(笑)

 

ルーブルや、ロンドンの名所旧跡にまつわるエピソードが楽しめる観光案内書としてもかなり魅力的なお話だった「ダ・ヴィンチ・コード」。

映画ではどんな風に描かれてるのかちょっと気になりますが、子供たちと一緒に先に映画を観てなくてセーフだったかもしれません・・・いろいろな意味で。(笑)

 

新しくなったルーブル、今でも日曜日の入館料はタダなのでしょうか。


日本の、これから(6.11)

昨晩、NHKでやってた 「日本の、これから」。

 

米軍基地がテーマでした。

 

これからの防衛のあり方について、約1/2の視聴者が「外交努力」を、3/8が「自主防衛」、1/8が「米国との同盟」を選択して、番組は終わりました。

互いに独立した概念ではない「外交」、「防衛」、「同盟」それぞれを排他的な選択肢としておくという、非論理的なオチで全てを丸め込んでしまうところは「さすが皆様のNHKだなぁ」と思わず感心。

 

「外交努力」だけで国が守れるのか?

中立を謳うオーブは、重武装国家でもあります。スイスのように、国民皆兵&一家に一丁軍用自動小銃って心意気じゃあなかったみたいですけど・・・。(笑)

では、「自主防衛」が「日本の、これから」となった場合、今度は日本人自身によって沖縄に基地が維持される状況の中で、これまでアメリカに対して明示できた不満を、同胞である日本人に対して表明することができるのか?

ウチナンチュウとヤマトンチュウの対立構造に転換していくのか?

オーブでは、ナチュラルとコーディネータはなぜか共存調和してましたが・・・。(笑)

 

そもそも「なぜ、主要な基地が(東京ではなく)沖縄にあるのか」というのが、沖縄の多数の人々の本音とのこと。

それは沖縄が、残念ながら地政学的に重要な位置にあるからではないでしょうか。

日本の主要同盟国が米国から中国に替わったとしたら、在日米軍は人民解放軍にとってかわられ、自由主義世界と対峙する要衝として関東沿岸部の軍備が増強されるのに対して、沖縄の重要性は相対的に低くなるかもしれませんが、それでも沖縄の戦略的位置に変わりなく、基地が撤退することもないでしょう。

 

沖縄の住民の意に添わない基地をなくしたいのであれば、沖縄が我が国から独立し、周辺諸国との間で中立条約を結ぶしかないでしょうが、そうであれば今度は周辺諸国から「中立の維持の保証」としての重武装を求められるという矛盾を招くことになるのでは・・・。

 

番組を見終えて、ふとそんなことが頭をよぎりました。


我が家の、これから(7.5)

「お向かいの駐車場に仔猫が迷い込んだらしいよ。ご主人の足にスリスリしてた。今、近所の女の子が家に連れていったみたいだけど、飼ってもらえるのかなぁ・・・。」

 

昨日の夕方、早めに帰宅した暢子の夫が心配そうに教えてくれました。

 

「どんな猫だった?」

「なんか、灰色っぽかった。お向かいのご主人はアメリカンショートヘアだ、って言ってたよ。」

「アメリカンショートヘアだったら、飼い主も探してるかもね。」

 

その後、10時頃に外に出て様子をうかがった時にも猫の鳴き声は聞こえなかったので、「きっと女の子の家に入れてもらえたんだろう」と安心して床につきました。

 

そして今朝。新聞をとりに庭に出た暢子の夫が、「あーさんから頂いたアサガオの種、また二つ芽を出したよ♪ それからあの仔猫、お隣の庭にいるよ。」

ワタシも庭に出てみると、確かにいました。お隣の庭のテラスに灰色の仔猫が。

どうやら女の子の家では飼ってもらえず、ご近所を彷徨い歩いている様子。

こちらの視線に気づいて、ワタシに体をすり寄せて来た仔猫。これぞ待ちこがれていた「短毛のメス」!? と思いながら、持ち上げてみるとおっぱいが!

仔猫というにはちょっと大きめだけれど、その表情にはまだあどけなさが残っています。なのにおっぱいが!?

 

お腹が空いているようなのでとりあえず牛乳をあげ、暢子の夫に近所のコンビニまでキャットフードと猫の砂を買いに走らせました。(笑)

その間ワタシは、物置きの奥にしまってあったメルのケージを出してきて組み立て。

組み立て終わってあらためて仔猫をよく見ると、皮膚病のためかところどころ毛が薄くなって肌がうっすらと見えるところがあります。

それから、お腹にはハッキリと並ぶおっぱい。(笑)

飼い主を探すにせよ、ウチで飼うにせよ、一度獣医さんに診ていただかないと・・・と思っているところに、暢子の夫が戻ってきました。

 

暢子の夫が買ってきたキャットフードを不思議そうに眺めてから、空腹に負けてカリカリと食べはじめた姿といい、裏返した箱のふたに猫の砂を敷いた急ごしらえのトイレにきちんと用を足す姿といい、どことなく育ちの良さを感じさせる仔猫。

我が家(の中)で飼うとしたらこんな猫、っていう前に考えていた条件にもピッタリ。

でも、こんなに大人しく躾けられている猫なら、やっぱり飼い主が探しているのかも。

複雑な思いを抱きながら、以前メルやタップがお世話になった獣医さんを診療開始時間を待って訪ねました。

 

「ずいぶん大人しい猫ですねぇ。名前は?」

「今日の朝、迷い込んできたばかりなので・・・。」

「あ、そうか。・・・毛が薄くなってるのは皮膚病じゃなくって蚤のせいですね。しばらく治療すれば良くなります。」

「あのぉ、お腹におっぱいが・・・。」

「う~ん、妊娠してるかもしれないね。でも、どう見ても生まれてから6~7ヶ月の仔猫だよなぁ。」

「やっぱり、飼い主さんが探してるかもしれないですよね。アメリカンショートヘアみたいですし、どこかのブリーダーさんのところから迷い出ちゃったのかも。」

「これ、アメリカンショートヘアじゃないですよ。混ざってるようだけど、顔が違う。雑種ですね。生まれていきなり妊娠しちゃったんで、手に余った飼い主に捨てられたのかもしれないですよ。」

「もしそうなら、うちで飼ってやりたいんですけど、子どもが生まれたら飼いきれないし・・・。」

「今なら避妊手術でなんとか処置できますよ。可哀想は可哀想ですけど。」

「手術しちゃった後で飼い主が現れて、問題になったりはしないでしょうか。」

「お金を拾って自分のものにするならいざ知らず、猫を拾って飼ったからって文句いわれた話は聞いたことないですよ。ましてや、この猫の様子を見ると、そこまでちゃんと世話されてたようにも思えないし。ありがたがられこそすれ、文句を言われる筋合いはないでしょう。」

 

もともと、飼うのであればするつもりだった避妊手術。

それが、人間の都合で生き物の命の繋がりを断つという、罪深いおこないであることは自覚しています。

それに加え、生まれ出ようとしている(かもしれない)複数の命を断つ罪まで背負うのは、あまりにもしんどい。

でも、育てるにせよ貰い手を探すにせよ、生まれてくる全ての命に責任を果たしきる自信もありません。

 

ウェンディと名付けられた仔猫はいま、我が家の玄関に置かれたケージの中で、週末の手術を待っています。


ウェンディの、これまで(7.9)

お昼前、手術のためにウェンディを獣医さんに預けました。

明日の夕方には帰って来れるとわかっていても、やっぱり別れは切ないもの。

ましてや自分の身の上がわからないまま、不思議な匂いの立ちこめる場所に閉じ込められたウェンディの不安といったら察するに余りあります。我が家に来てからほとんど鳴き声を上げたことのないウェンディ。あんな声が出るんだと思うほど大きな声で、ドアの向こうから呼んでいます。

後ろ髪引かれる思いで獣医さんを後にし、逃げるように帰宅しました。

 

獣医さんのところまで連れていく車の中、ウェンディはワタシの膝の上で抱かれていたのですが、窓の外を流れる景色や前後左右に揺れる心地が苦手な様子だったので、明日迎えにいく時にはシートに固定できるキャリーを用意してやろうと、初めていまどきのペット用品専門店へ足を向けてみました。そしたら、ちょうどイメージどおりの品がセール中!

おまけに、そこでもらった福引券で長男がガラガラを一回まわしたら、三等(500円の商品券)が大当たり♪

これは珍しく流れがきているのか、我が家!?

 

その後、夕ご飯を買って家に帰り着くと、電話の留守録のランプが・・・。

まさか、ウェンディの身に何かが!?

あわてて残されたメッセージを再生すると案の定、獣医さんの鉄人・道場六三郎のような声が!

 

『今、手術が終わりました、が・・・』

 

「が・・・!?」

 

『おなかに赤ちゃんはいませんでした。』

 

「えっ!?」

 

『出産後、一か月位経っているようです。ということは、この猫も生まれてから1~2年は経っているのかもしれません。お腹が大きかったのは、子宮に膿みが溜まっていたのと、大量の宿便があったせいでしょう。宿便もかき出し、浣腸もしておきました。』

 

慌てて折り返し電話を入れ、改めて説明していただいたことによると・・・

 

おっぱいの大きさからして、明らかに子供を産んでしばらく経っている。

牛や馬なら歯に年齢を重ねた跡が残るのだけれど、犬や猫には残らない。だから、歯の汚れ具合いや顎の発達具合から推測することになるが、このウェンディは歯もきれいだし顔も小さいから生後半年くらいだと思ったが、色々なことを考えあわせると、生まれてから一年以上経っている可能性もある。

血液検査の結果、猫エイズや猫白血病にも罹っていない。

肌が黄色っぽかったので肝機能障害を疑ったが、血液検査の結果は問題なかった。皮膚の色が悪かった理由は、おそらく栄養状態が悪かったせいだろう。

子宮蓄膿症は処置したし、宿便も出来る限りのことはしておいた。

今は、麻酔が切れてフラフラしているが、引き取りは明日の夕方で問題はない。

 

・・・とのこと。

 

よかったぁ~☆

赤ちゃん猫を殺めることもなく、子宮の病気を治すことができ、おまけに宿便までケアしてもらえたなんて。

我が家にとってはこれ以上ないハッピー・エンドならぬハッピー・スタート!

 

それにしても、ウェンディは我が家にくるまでのあいだ、どんな生活をしていたのでしょうか。

きれいな歯、きちんと躾けられたトイレ・・・。

小さい体での出産、栄養不良・・・。

大量の宿便は運動不足のせいだとすれば、ケージの中で過ごす時間が長かったってこと? 

じゃあ、どうしてウェンディは我が家にやってきたの?

そしてなにより、ウェンディが産んだ赤ちゃんたちは、いまどこに・・・。


ウ~ン、ロマン♪(7.23)

国立歴史民俗博物館館長の講演を聞いてきました。

 

古代の行政単位は20~30人で一戸。

50戸以上で一郷(さと)になるんだそうです。

で、いくつかの郷で構成されるのが評(こおり、後の郡)、いくつかの評で国(出雲の国とか常陸の国とかの国)を成していたとのこと。

基本単位である戸は、一定の地域に暮らす人の数が20~30人に達したら、一人戸主をたてて括ったまとまりだそうです。別に一か所にすんでいる家族の単位とか、住居一棟というわけではないところが、今の「戸」とは大分違うイメージのようです。

 

ワタシの想像も入りますが、当初人々が肩寄せあって住んでいた地域、例えば100人の集落であれば、血縁などを手がかりに20人程度のまとまりに区分して4~5戸に区分したのでしょう。でも、やがて辺縁地域の開拓、移住がすすむと人々は拡散していき、一戸を構成する人々もそれなりに離れて住み、郷を構成する戸も分散していく。つまり「共同体の人口密度は疎」になっていったとのこと。

ということは、戸や郷は集落の管理区分というよりは、広範な領域を束ねて共同体としてのアイデンティティを維持するための単位、あるいは点在する人々の互助単位となっていったということなのかも知れません。

また、人口密度が疎でありながら一つの単位として成立していたということは、その地域に住む人々の間の地理的距離を埋める移動や通信といった、何らかのコミュニケーション手段があったということになります。そのあたりに「香取の海」が関わっているんだろうなぁ、きっと。

 

個人的に面白かったのが、実家のある逗子で平成12年頃に発見された長柄・桜山古墳。

4世紀の建造物だとのことで、その特徴は後円墳と前方墳の間尺比が我が家近辺に見られる房総の古墳のそれと一致するということだそうです。

これまでは、静岡の焼津など神奈川以西で確認されていた古墳の寸法に見られる特徴と房総の古墳のそれとは異なっていたため、東京湾を挟んだ東西の連続性が不明だったそうですが、この逗子の古墳の発見により三浦半島の六浦辺りから走水(はしりみず)経由で房総の富津辺りに渡って、内房の海沿いの台地を経て「いには(印旛)」の地に至るルートが強く想定できることになります。

六浦といえば、一昨年に長男がやった自由研究によると鎌倉時代の交易の要衝だったとのことですから、鎌倉期以前から房総地域への中継地点として機能していたというイメージ、ワタシにはすんなり入ってきます。

そして何よりこのルート、ヤマトタケルが辿ったとされる道筋そのもの。我が家の東南東には「吾妻神社」、西には「大鷲神社」といういずれもヤマトタケルの足跡を残す社があり、はたまた実家の裏山にも「神武寺」という初代天皇の名を掲げたお寺があるのですが、これまでは半ば「どこにでもある町おこし伝説」との気持ちで受け止めてきた伝承も、案外何がしかの真実を伝えているのかも。

逗子と印旛という、ワタシにとっての二つのご当地遺跡がヤマトタケルの足跡を示していると考えると、とってもワクワク♪

 

ヤマトタケルより遥か以前にも、黒潮に乗って房総半島東端の銚子から「香取の海」に入り、後の鹿島、香取神宮となる港の要塞を設営した上で常陸や下総地域に展開していった勢力があったと考えているワタシにとって、その第一波とヤマトタケルとしてあらわされている第二波、そしてその後の第三波(七世紀頃?)という社会の変化についての勝手な想像を後押ししてくれるトピックスの数々に、久々に刺激的な1時間半を過ごすことができました。

 

最近、ウェンディのおかげで浪費ぎみの我が家にとって、こんな素敵な講演がタダで聴ける機会があるなんて!

ウ~ン、浪漫♪(笑)


チューに始まりチューに終わる(7.30)

長男がソフトテニスの練習試合に出かけた夏休み最初の土曜日、暢子の夫と次男坊と三人で、佐倉市立美術館で催されている「なんてったって浅井忠!」を観てきました。

浅井忠といえば、ミレーの「落ち穂拾い」を彷佛とさせる「収穫」など、しっかりとした画風の画家というイメージをもっていたワタシですが、ケーブルテレビでこの企画展を紹介していた時、子供たちが押していたスタンプにあしらわれた可愛い黒猫の親子も浅井忠の作と知って、俄然行ってみたくなりました。

美術館で紹介されていた、日清戦争従軍画家時代や44歳からのフランス留学期の作品(残念ながら、ほとんどは複製でしたが)を観ると、明るく柔和なタッチで描かれている作品が多いことにビックリ!

なかでも、画集のなかで紹介されていた「金州城南門外」という作品は、まるで「イエス」や「ジャンヌ」の頃の安彦良和の画風♪

ホント、目から鱗の展覧会でした。

 

家に帰ってみると、ウェンディが床の上に下痢を!

その軌跡をたどると、トイレに向かおうしたものの間に合わなかった様子。

実は、朝方も和室の畳の上に粗相をしてしまったウェンディ、前の晩にイワシの頭をやり過ぎたせいかも知れません。

 

「欲しがるからって、調子に乗ってたくさんあげちゃったのが悪かったかな。」

「もしかしたら、お父さんと似てるのかもよ。」

「どういうこと?」

「お父さんも乳製品とか冷たいもの摂ると、すぐにおなかこわすでしょ。ウェンディのおなかも、青魚とは相性あんまり良くないとか。」

「だとしたらかわいそうだなぁ、ウェンディ。」

「そういえばお父さん、最近も電車の中でお腹が痛くなること、あるの?」

「時々ね。」

「ストッパっていうの、持ち歩いてた方がいいんじゃない? 水なしで飲めるんでしょ、あれ。」

「でもあれって、満員電車の中でおもむろに飲んだら、それこそ周りの人に『あ、このひと・・・』って思われちゃうじゃん。」

「それもそうね。」

「あの薬、本当に電車の中で飲んでる人っているのかなぁ。」

「見たことないの?」

「うん、見たことない。あれ? でも、どこかで見たような・・・そうだ、明智小五郎だ。」

「え? 明智・・・?」

「そう、明智小五郎。昔、天知茂がやってた民放のドラマシリーズでさ、ラストで明智が関係者を全員集めて犯人を名指しするんだよ。すると、観念した犯人は隠し持っていた毒をあおるんだ。それを見た等々力警部が『あっ、何か飲んだぞ!』って言って犯人に駆け寄るんだけど、『間に合わなかったか・・・』で犯人絶命。」

「・・・」

「通勤電車のなかで聞きたくない言葉だよね、『間に合わなかったか』。」

「あ~あ、お父さんが訳わかんないこと言い出すから、せっかくの浅井忠の余韻が・・・。」

「お詫びに、とっておきの情報をひとつ。」

「なに?」

「その等々力警部を演(や)ってたのが、今は亡き荒井注・・・。」

 

チャンチャン♪


冬のタヒチだけにクリスマス釣りー?(8.23)

トリックスターの親分から紹介されたブログ(http://www.enpitu.ne.jp/usr4/bin/day?id=45126&pg=20060822)で、「2006年8月18日付け日経新聞(夕刊)「プロムナード」に掲載された、直木賞作家・坂東眞砂子さんのエッセイ」というものを知りました。

そこで綴られている「私は子猫を殺している」という内容に、ネット上は騒然となっているとか。

というわけで、遅ればせながら(?)ワタシなりのコメントを少々。(っていうか、長々?)

 

>育てられない子猫は、最初から生まないように手術する。

>私は、これに異を唱えるものではない。

>ただ、この問題に関しては、生まれてすぐの子猫を殺しても同じことだ。

>子種を殺すか、できた子を殺すかの差だ。

 

確かに未来の可能性を奪うという一点においては、その通りです。

結果的にはそうせずにすんだものの、ウェンディのお腹の中で生まれでる時を待つ命を断とうとしたワタシですから、この作家女史のことをとやかく言えないのかもしれません。

でも、1か0かで物事を断じてしまうことには、強い違和感を感じます。

「避妊」と「堕胎」、そして「生まれた仔猫を殺す」ことそれぞれの間には、大きな質的な差を感じる感性がワタシのなかにあります。もちろんそれは、「生まれた仔猫を殺す」ことの罪を1とすればその他の罪は限りなくゼロになる、という感性ではなく、避妊を1とすればその他の罪はより大きくなるという感覚です。

初めて感じる世界の光に体を振るわせ、これから未来に向けて精いっぱいの力で歩き出そうとする姿を見て、何も感じず殺せるのだとしたら、そのような感性を持って生きることが女史の背負う業だとすれば、それは哀れというほかはないでしょう。

 

「私だってその辛さは感じている。でも、母猫の人生をより充実させてやることを優先して、敢えて『産む』という体験の後で子を殺すのだ。」

という感覚をお持ちなのかもしれません。ネット上で紹介されているご本人の記述でも、

 

>避妊手術のほうが、殺しという厭なことに手を染めずにすむ

 

と、殺す方がより心理的に負担が大きいことを素直に表現されています。

ならば、その感覚を素直に受け入れたほうが人として自然なのではないでしょうか。そうしないのは、やはりご本人の記述にあるとおり、「親猫にとっての『生』の経験」を犠牲にすることのほうがより厭なこと、と感じているからでしょう。

もし、母猫への共感の方が生まれたての仔猫への共感に勝るというのだとすれば、それは猫のことだけに留まらず、子供の未来を育むための時間に責任を持つことより自分の都合を優先させる世の多くの親たちに通ずる生き方かもしれない、そんなふうにも思えます。

 

もしかしたら作家女史のなかには、

 

「捨てられる仔猫は、その生涯が『捨てられる』という悲劇で始まった以上、明るい未来よりも悲惨な運命が待っているに決まっている。そんな悲しい生涯なら、少しでも早く終わらせてやることが、自分のエゴで動物を飼うヒトとしての責任の取り方だ。」

 

という理屈もあるのかもしれません。

だとすればそれは、「仔猫を助けたいけど出来ない」という素直な感覚を封じ込めるため、あるいは全く逆に「仔猫を殺したい」という素直な感覚を隠ぺいするための屁理屈としか受け取ることができません。

はたして、そんな屁理屈をわざわざ新聞に載せるような方なのでしょうか、この女史は・・・。

 

よくよく考えてみれば、

 

>タヒチ島の私の住んでいるあたりは、人家はまばらだ。

>草ぼうぼうの空地や山林が広がり、そこでは野良猫、野良犬、

>野鼠などの死骸がころころしている。

>子猫の死骸が増えたとて、人間の生活環境に被害は及ぼさない。

>自然に還るだけだ。

 

との記述から察するに、女史は自ら手を下す必要など全くなさそうです。

親猫の「生」を優先させるというなら、出産という「生の経験」だけでなく子育てという「生の経験」までさせたうえで、仔猫を野に放てばすむ筈ですから。

そんなことを考えると、もしかしたら女史は、税金で捨て猫や捨て犬を大量に殺して、それも一握りの誰かにその役目を押し付けて平然としているワタシたち日本人社会に一石を投じるための「ネタ」として、さらには前述のような子供よりも自分の生を優先する親たちに対する辛らつな皮肉として、この一文を発表したのかも・・・とも思えてきます。

だとしたら、作家である女史にはこのメッセージを物語として綴って欲しかったな。

 

この作家女史が綴っているのは、一体どのような物語なのでしょうか。


ミリオンダラー・ベイビー(8.27)

クリント・イーストウッド演じる老トレーナーと、ボクシングが好きで31歳になった今もウェイトレスのアルバイトをしながらトレーニングを積むマギー。

 

老トレーナーは、ジムでは才能のある選手をタイトル戦を闘えるまでに育てることができる名指導者であり、リングサイドでは相手のパンチを受けてコーナーに戻ってくる選手の傷をふさぐ「出血止めの名人」。

マギーは、父親と死別後の荒んだ生活感にどっぷり浸かった母や妹たちと離れ、トレーニングを積む日々に生きる楽しみを感じる女性ボクサー。

老トレーナーの指導のもとで才能を花開かせ、連戦連勝のマギーはついに世界の頂点に挑むが・・・。

 

格闘技を題材にしながらも淡々と綴られるこの物語は、主人公二人の挑戦と悲劇を軸に、周辺に配された何人かの登場人物を通じて、純粋に生を全うすることとは・・・というテーマに挑んでいます。

この物語を観ながら、ワタシの中には様々なものが去来しました。

 

出産して間もない様子の宿無しネコから、我が家の家ネコになったウェンディのこと。

認知症が進み、何年も寝たきりの義母のこと。

腰が立たず意識もあやふやになり、安楽死させた老犬タップのこと。

病院のベットで延命のために身体につけられた管を何度も自分で外して逝ったという、暢子の夫の祖父のこと。

タップの同居ネコとなり、避妊された外ネコとして三年の生涯を終えたメルのこと。

透析の日々の中、動脈瘤破裂を起こしてなお意気軒昂な父と、やがてくるであろう別れに心の準備をしようとする母のこと。

 

ワタシがアメリカで過ごした中学時代、日本が原爆でとどめを刺された先の大戦について、日本や日本人であるnobukoには別の思いがあって当然だと話してくれた、現地校の社会科の先生。

 

・・・そして先日、三年越しのいじめを苦にして、「今まで育ててくれてありがとう」という遺書を残して自ら命を絶った、瀬戸内海の島の中学一年生の男の子のこと。

 

この映画には、明確な答えは用意されていないのでしょう。

イェイツの詩をゲール語で読み、毎日のミサのあとで神父に聖書の真意を問うては煙たがられ、物語の終局ではその神父の助言とは異なる選択をして画面から消えていく老トレーナー。

彼がそうであったように、答えはそれを見出そうとするものの中に、各々の求める形となって現れるものでしょうから。


二人三脚(9.16)

今日は、次男坊の小学校の運動会。

先週は長男の中学でも体育祭だったんですが、こっちはもうパス。

小学校のは親子競技もあるし、お昼も一緒にお弁当なので、暢子の夫と参加してきました。

 

五年生の親子競技は二人三脚走。

ただし、親があんまり熱くならないようにという配慮からか、はたまた体が鈍っている親にもチャンスを与えるためか、「運」の要素も入っていました。親と子はそれぞれ、トラックの直線コースの反対側にスタンバイして、スタートの合図で同じコーナー目指して走ります。親は足を結わえるために家から持参した紐を持って走り、子供はコーナーの手前に待ち構えるシルバー部隊(地域の年配の方々)とジャンケンをして勝ったらそのままコーナーへ、負けたら一旦スタート地点に戻ってからコーナーへ走るのです。

昨日の夜、お兄ちゃんの長めの鉢巻きを足の結わえ紐にすることにした次男坊にせがまれ、素早く結わえるやり方やら歩の合わせ方やらをしきりに練習をさせられていた暢子の夫でしたが、競技開始前に入場門に集合したよその親御さんたちが手にしているものを見てビックリ。ストッキングを縒って太くしたものをあらかじめ輪っかにしてあるじゃあ、あ~りませんか。

ほかにも、伸縮性のあるヘッドバンドを持参している方もいて、こりゃあその場で結わえようなんて悠長なことをしていたら万に一つも勝ち目はナイ!

 

いよいよ順番が回ってきて、勢い良くスタートをきった次男坊でしたが、お約束どおり(?)ジャンケンに負けていきなりのビハインド★

六人中四番手で、紐を持って待つ暢子の夫のもとへたどり着き、足を結わえた後は完走を目指すのみ・・・とその時です、事件が起こったのは!

三番手だった親子がなぜかもたついたおかげで、我が家は三位浮上!

おまけにゴール直前では、だいぶ前を走っていたはずの二番手の親子の足を結わえたストッキングが切れて転倒!

気が付けば、二位でゴールしていた我が家でした♪

 

考えてみれば、伸び縮みするストッキングは足を結わえる時には便利ですが、強く引っ張る力には弱そう。

実は「ストッキングの輪っか」、先生推奨の工夫だったとか。

まさか先生、狙ってた!?(笑)

 

ところで二人三脚といえば、ライブドアを共に仕切ってきた宮内被告を相手に、裁きの場で泥仕合を繰り広げているホリエモン被告。

「株価、どうどうどう?」って自社株の動向を気にかけていた様子を、かつての盟友にモノマネで証言されちゃったとか。

宮内被告にしてみれば、ホリエモンは担いだ神輿のてっぺんで「コッカァドゥドルドゥ」って啼くチキンだった、ってこと?


乙女座トリオ(9.26)

今日の夜、組閣される安倍新内閣。

「自称秋葉原オタクのみなさん」の心をとらえたトリックスターの親分・・・じゃなかった(笑)、麻生太郎さんは重要ポストに留まるとのこと。このお二人、実はそろって乙女座なんですよね。

で、ワタシのピンポイント予想は、山谷えり子さんも加えた乙女座トリオの結成☆

拉致問題や過剰ジェンダー問題で安倍さんと息の合ったところを見せている山谷さん、教育再生担当か拉致担当の首相補佐官になるんじゃないかなぁ。

このまえ買ってきた誕生日事典によると、この三人は「乙女座ー天秤座カプス」に位置していて、その中心的イメージは「美」。

三人それぞれについてもう少し詳しく見てみると・・・。

 

「美しい国へ」という本も出した安倍さんが生まれた9月21日生まれの人は、「あくまで美にこだわり、美的感覚に訴えるかどうかを最優先事項にしがち」だそうです。「今どんなものがはやっているかに大きな関心をもち」、「かたちあるものから抽象的なものまで、自分のつくりだすものすべてに大きな誇りをもって」いるとのこと。

 

9月20日生まれの麻生さんは「有能なマネージャー」。「どんな状況に陥っても何とか切りぬけられると信じて」いて「概して判断力に優れて」いるそうです。その一方、「自分の力を過信して、どんなときにも真実を見極められると思いこむのは禁物」。「自分の誤りに気づき、それまでの流儀や考え方を改められるかどうかが重要なポイント」とのこと。

 

山谷えり子さんは9月19日生まれで「美的センスにこだわりをもつ人」。「とにかく外見が第一。自分の容姿はいうに及ばず、家、身のまわりにあるもの、家族の外見にまで」こだわり、「ものごとをきちんとしておかなければ気がすまないたちなので、周囲の人々をうまくまとめ、組織として円滑に動かすこともできる」そうです。「人間的に成長した人なら、内面にも目を向け、外見と同様に心の美しさにもこだわるはず」ともあります。

 

外交や教育などの面でのお三方の具体的な方向性に、大筋でアグリーなワタシ。

でも、なんとな~く危うさを感じてしまうのは、「美意識」で生きているっていう雰囲気が滲み出ているところなんですよね、確かに・・・。

というわけで、最後にそれぞれの生まれ日に与えられた「瞑想のことば」を。

 

山谷さん:「もう少し深く掘り下げよう」

麻生さん:「生きている自分を観察しよう」

安倍さん:「美しさは、あるに越したことはないが、つねに必要とはかぎらない」


水の証(10.1)

「今度の健康診断では、オプションで脳ドックを受けようかな。」

 

40歳を過ぎてから、通常の人間ドックに加えて胸部ヘリカルCT検査か脳MR検査を受けられるようになった、暢子の夫。

人の頭の中を覗いてしまう機械なんて、なんだかとっても危ないものを出していそう。

でも実は、MRIは「人類が手にした最も安全な臨床画像法」なのだそうですね。「CTでさえも、現病歴のない人を対象にした場合にはせいぜい年に一度が限界と考えられる中で、MRIの施行回数には制限がない」のだとか。

 

医療の現場で今では当たり前に使われているMRI。

それは、どのような放射線も必要とせず、身体を形成する水分子の水素原子核が特別な周波数に示す共鳴現象を捉える技術であり、「MRIの画像とは、水分子の奏でるシンフォニーのようなもの」と書かれているのは、近代MRIの開発者である中田力(つとむ)氏。

 

中田氏は『脳のなかの水分子』(紀伊国屋書店)という本の中で、大脳皮質の機能を抑え、意識そのものを取り去ってしまう全身麻酔の機序について、現在主流である「脂肪溶解度説」に疑問を投げかけます。

マイヤーとオーバートンの提唱した、「脂肪に溶けやすいだけ脳に入りやすく、脳に入りやすい薬剤ほど強い麻酔効果を持つ」というこの説は、脂肪に溶け込んだ麻酔薬がどのようにして意識をとるのかには言及していない、というのです。

そして、水分子と水分子とがお互いにくっつきやすい状態をつくることが、全身麻酔効果の分子機序であるという「水性相理論」こそが、「全身麻酔薬の分子効果の説明としては完璧なものである」としています。

 

実はこのことを最初に見つけ出したのは、2つのノーベル賞を単独で受賞しているただひとりの科学者、ポーリングというアメリカ人だそうです。

人の意識、脳が覚醒しているという現象が、脳における水分子の状態変化に左右されることを、最初に見抜いたポーリング。

しかし彼ほどの実績ある科学者の発見であっても、脳科学の世界に君臨する人々の理解を越えるという単純な理由から、その「水和性微細クリスタル説(=水性相理論)」という名の学説は、図書館の奥へとおいやられてしまったのだそう。

 

中田氏が、こころと呼ばれる脳機能を脳科学の立場から研究したくて渡った地・アメリカ。

そこでも、脳神経学から高次機能を追求する医師は異端とされていましたが、やがて彼はポーリングの論文に出会います。

それから15年の歳月が流れ、「複雑系」と「情報理論」と十分な臨床経験を積んだ中田氏の中で生まれた「渦理論」は、人間の意識、こころについてひとつの答えを導き出しました。

すなわち意識とは、「大脳皮質におこる、最もエントロピーの高い状態、つまりは、等価のノイズが作り出す現象」であり、「大脳皮質のニューロンがランダムに発火している状態であり、脳が情報を受け入れる準備のできている、覚醒した状態のこと」なのだそうです。

 

中田氏の渦理論の内容は、科学音痴のワタシには、正直わかったようなわからないような。

でも、中田氏が本の前段で触れていた、星や星座、北極星、そしてDNAから体が自己形成される過程の説明は、とても身近に感じられ、思わず引き込まれる文章でした。

何より、氏が「全身麻酔薬の分子効果の説明としては完璧なもの」とする「水性相理論」が、「全身麻酔薬の大気圧依存性という、きわめて特殊な性質をもきちんと説明してしまう」という説明の下りは、低気圧が近付いてくると途端に身体と意識の活力が低下して、ドヨ~んとしてきちゃうワタシの特殊事情もきちんと説明してくれるのでは!?

 

しかし、本の扉には「ノーベル賞に最も近い研究者のひとり」と書かれている中田氏の渦理論は、水性相理論と同様にいまだ危ない科学との汚名を着せられたままとのこと。中田氏自身、科学の世界で「うそつきのレッテルを貼られる」ことを恐れて、しばらくのあいだ論文化していなかったと述べています。

 

「一対一に対応する現象論の議論に慣れきってしまった人たちには、一対一に対応しない非線形現象と、一見無関係に見える非線形現象の根底を支配する統一理論の存在が、見えないのである。現世の喜びを追求する人間たちで満ちてしまった近代科学は、進み過ぎてしまった科学の全体像を理解するために必要な学際的知識の獲得に必要な時間を、心ある若者に与えようとはしない。」

 

スコティッシュ・ホルドの件や父親の闘病の件で、麻酔医の弟との間で何かと意見の衝突をしてしまうワタシにとって、『脳のなかの水分子』は示唆に富んだ一冊でした。


夜の散歩(10.19)

いつのまにかクロマティ高校が終わって、いつのまにか始まった野中英次の新連載は「未来町内会」らしいですね。

ご町内の目が気になって立ち読みができなくなったワタシとしては、毎週一話単位で購入できるネット漫画サービスがあれば100円でも買うんだけどなぁ・・・。

そんなことを考えていた水曜日の夕方。庭先の郵便受けに届けられた自治会の会報に目を通してビックリ、というかガックリ★

 

空き家になっているお家の庭に野良猫が住み着き、増えてしまった(といっても4~5匹らしいのですが)ことへの苦情が自治会へ寄せられていたらしいのですが、自治会と空き家周辺にお住まいの方々との話し合いで

 

○猫に餌を与えない

○猫を飼わない

○猫の捕獲を了解する

 

という結論に至ったとのこと。

これを受けて、自治会が行政と打ち合わせを行い、捕獲に向けての自治会内の明確な方針をまとめていくことになったそうなのです。

この辺りの住人たちの多くが、「猫が外を歩いてるなんて、いまどきありえない!」と言う方たちなのは、残念ながらメルの時から変わらず・・・というかむしろ強化されてしまった!?

 

学校からの帰り道、仔猫たちが空き家の庭でひなたぼっこしたり、追いかけっこしているのを見ていた次男坊。

 

「猫たち捕まえた後、どうするんだろう?」

「もしかしたら、というよりたぶん保健所行きかな・・・。」

「・・・臭いからってあっち行けって言うのは、いじめと同じだよね?」

 

確かに、相手が弱い猫だから「邪魔者は排除」しちゃえ、って言えちゃうのはいじめの構造そのものです。

もし、空き家に住み着いたのが猫じゃなくって、「その筋の人」が引っ越して来たとしても、

 

○その筋の人に回覧板をまわさない

○その筋の人を住わせない

○その筋の人の捕獲を了解する

 

という結論に至るのでしょうか???

 

外猫たちの生は短いのですから、避妊した後そこら辺をウロウロできる自由を彼等に許してやってほしい派の我が家で育った次男坊は、

 

「つかまえたネコは、殺さないで。

避妊手術をしてから、飼ってくれる人を探してあげて下さい。

椋鳩十の本に、にぼしを置いておくとうんちをしなくなると書いてありました。」

 

と自治会宛に匿名で手紙を書きました。

飼ってやれない母は、宵闇にまぎれてそれを集会所のポストにそっと入れ、ささやかなレジストに手を貸しました。

どうか、猫たちにも夜の散歩の自由を・・・。


どっちの病院ショー(11.1)

「お父さんだけ特別扱いにはできないんだよ。勝手なことをしてくれた!」

 

梅雨の頃、大動脈瘤破裂で搬送された救急救命病院から、夏の盛りにリハビリ施設(そこも本来は救急病院なのだそうですが、とてもそうは見えない★)へ移った父。

一月とちょっとの間は3人のリハビリの先生や若くて優しい看護士さんとリハビリに精を出していた父でしたが、ある日「元の病院に戻してくれ」と母に訴えました。

もともと、そこの主治医とだけは(っていうか、ここが一番大事なんですけど・・・)当初から折り合いが悪かったのですが、さらに年配の主任看護士(女性)と決定的な衝突を起こしたのです。

 

「主治医の先生に言っておきますから、明日の朝、熱を下げるための注射をうってもらうように」とリハビリの先生に言われたのに、次の日の夜になっても注射がうたれる気配がないので、しびれを切らした父が母を通じて主任看護士に問い合わせたところ、「ちゃんと行った(やった)」との返事が。そんなことはないと別のスタッフに確認を頼んだら、使用済みの注射器がないことから注射はされていないことがハッキリしたのですが、そうしたら今度は「主治医の先生が休みだから」処置しなかったと言い出す主任看護士。

このことに猛烈に違和感を感じた短気な父が、我慢の限界になったのです。

 

元の病院に連絡をとると、元主治医の先生はあいにく親族のご不幸があって不在だったのですが、ほどなく折り返し連絡をくださり、次の日には戻るための救急車を手配してくださいました。

元の救急病院に移った後で、母が長男に事の次第を伝えたところ、戻ってきたのが冒頭の言葉でした。

 

群馬で麻酔医をやっている弟。

 

「僕が医者だから、お父さんは特別扱いなんだよ。だから、そういうことされちゃあ困るんだよ。そんなこと(入院患者に嘘をつくこと)はどこの病院でもあることなんだよ。生死に関係ないんだからさ。そんなことで施設を移っていたら、どこにも行くところがなくなっちゃうんだよ!」

 

弟のあまりの剣幕に、普段は長男頼りの母もその時は驚き飽きれてしまったと、後で涙ながらに電話してきました。

 

「お父さんはあそこにはいられない。あのままいたらきっと死んでしまった。」

 

母の言葉の意味するところは、父の生きる意欲についてなのですが、それが弟には通じなかった(これは今でもまだそうなのですが★)様で、「どこの施設に行ってもお父さんがあれ以上よくなることはないんだよ」とも言っていたとのこと。

それはそうなのかもしれないけれど・・・。

 

そういえば、4月に血統書付きの猫の繁殖のことでワタシと衝突した際に

 

「患者さんからの痛みの訴えも一応聞くけど、そんなに真剣には受け止めてない。だからお姉さんからなんて言われようと、別になんともない。」

 

と言っていた彼。

母の先月の涙の訴えは、さもありなんとすぐに理解できたワタシです★

 

再転院後、一時は24時間点滴になって、やせ細ってしまった父。

手術して以来、ずっと背中に痛みがあるようで、前向きな気持ちの割には体がついていかないそのもどかしさが、見舞いの度に伝わってきます。

そんな父にはもう必要がないからと、以前自宅から通っていた6階の透析室の鍵を母が返そうとしたら、「(父が)いつでも戻って来れるようにそのまま持っていて下さい」と声をかけて下さった透析室の看護士さん。

そして、父のちょっとした質問もないがしろにせず、いつもきちんと答えて下さる担当の先生。

人よりちょっぴり(?)頑固な父が、信頼してやまない医療空間にいるお陰なのか、「今週末には胃ロウに戻れるまでに回復したから、自宅に戻る準備も始めなくちゃ」と張り切る母から今朝電話がありました。

 

患者の心の痛みや、そこから生じるかもしれないあらゆる痛みの知覚についてあえて無関心でいようとするスタンスは、弟だけの特徴ではなく多くの医療現場に蔓延する空気なのかもしれません。だとすれば、一昔前の風情漂う8人部屋とは言え、父が信頼して身を任せていられることは奇跡とまではいかないにせよ、とても幸運なことなのでしょう。

ワタシにもそんな幸運が訪れるのか、運に身を任せなければならないのだとしたら、ワタシの腎臓が父と同じ段階になったとしても、病院という場所からは極力遠ざかっていたいと願う今日この頃です。


誰が「野ブタ。」をプロデュース? その1(11.3)

再放送で見事にハマった「野ブタ。をプロデュース」。

本放送の時には、全国のノブコを敵に回したようなタイトルのおかげで、チャンネルを合わす気にならなかったワタシでしたが、アイロン掛けの最中に何気なく出会ってしまってからは、その物語世界に一気に引き込まれました。

再放送終了後も、このドラマはどんな受け止められ方をしたのだろうか・・・とか、どんな人たちが創ったんだろうか・・・とか、いろいろ知りたくなってネットの中を行ったり来たり。そうするうちに、あることに気がつきました。

このドラマのファン層は、結構な割合で「無限のリヴァイアス」のファン層と重なっているんです。

 

そう思ってドラマを振り返ると、確かに似たテイストを感じます。かたや宇宙船、かたや学校と、形は違えど同じ閉鎖的な空間の中で、若者たちが抑圧と自由を問うお話という点では、似ているという以上に似ています。

さらに、「野ブタ。」には蒼井(あおい)と梢(こずえ)というヒールキャラが出てきますが、リヴァイアスにも「あおい」と「こずえ」という女の子(ヒールどころかヒロインでしたが)がいました。

なら、公式掲示板の常連になるほどリヴァイアスに入れ込んでたワタシが、どうして再放送を観ながらそのことに気がつかなかったんだろう・・・。

それはきっと、リヴァイアスを最後まで満たしていた「閉塞感」と、掲示板でワタシがひとりツッコミ続けていた「主人公の厭世的な人生感」のかわりに、野ブタ。は明け白む東の空を眺めるときに感じる「前向きさ」で貫かれていたせいだと思います。

 

図書館で野ブタ。の原作を借りてきたのですが、こちらでは"野ブタ"は信太、男の子なんですね。

で、彼をプロデュースするのも修二ひとり。ドラマで活躍する修二の相棒、彰(あきら)は登場しません。

ドラマで主人公たちと対峙する蒼井と梢のような、明確なヒールも設定されていません。

ドラマでは修二には浩二(こうじ)という弟がいて、いつも不在の母親のかわりに修二が世話を焼くという設定でしたが、教室が舞台の原作では修二の家族は説明程度でほとんど描かれていません。

そしてドラマの修二は本当の意味で成長し、物語のラストも明るい結末になっているのに、原作は・・・。

 

原作とドラマの違いを知るにつれ、ワタシのなかでリヴァイアスの公式掲示板での思い出が蘇ってきました。


誰が「野ブタ。」をプロデュース? その2(11.3)

リヴァイアスの放映が終了してだいぶ経った後、公式掲示板に「黒のネーヤ」と名乗る人の書き込みが載りました。

 

誰も助けてなんかくれない教室の中には、信用できる大人なんていないし、真面目なことを考えるだけで標的になっちゃうんですよ。どんなふうに生きたいかなんてこと思い始めたら、結局いる場所がなくなっちゃって、ネーヤみたいな「死にたくない」って気持ちだって簡単に飛び越えちゃうんです。

みんなの中に少しだけ残っている良心は、ひとのことをいじめる時に大人の目につかないところでやることくらいで、勇気なんて言葉は寒いです。結局、ひざまずくしかないっていう現実を、リヴァイアスはちゃんと書いてくれてます。主人公が「投降しよう」なんてゆうアニメなんて、他にない。

 

パットのお父さんがはじめの方で死んじゃって、ほかの大人もなんにもできないリヴァイアスって、世の中になんにも期待するなってことを教えてくれてるんですよ。

 

リヴァイアスを一度おりたのに、もう一度乗るのだって、中学をやっと抜け出しても、また高校のほかに行くところがない私たちと、ホントそっくりですごいと思いました。変わらなくっていいんだ、何をしてもむだなんだってこと、ちゃんと伝わってます。

 

この書き込みには、掲示板の常連からの「助言」レスが殺到しました。

そしてワタシは、次のような書き込みで応えました。

 

リヴァイアスが終わって、7ヵ月・・・。

当初感じた私の中のもやもやは、投稿を重ねて明確になった点も多少ありました。

けれどもやっぱり依然として、もやのように、またはとげのように、心に引っ掛かっているものがありました。

そのもやもやの意味するところが、黒のネーヤさんの投稿を読んでからは、一気に明確になり始めました。

 

なぜ主人公(昴治)は、他者から友達として、あるいは話しかける相手として、明らかに一目置かれるキャラ(性格)を生来の個性として持ちえているのに、いつまでも「自分はとても損だ」と言う様なセリフばかり、言い続けていたのか。

 

主人公に比べれば、どんなに「真面目に」生きていても、他者からばかにされたり、いじめられたりする存在でしかない人がいる現実があるのに、彼は自分がどんなに楽な立ち位置で生きていられるのかについて、一度でも考えたことがあるのか。

 

まさにこの点への、違和感なのでした。

他の登場人物(例えばルクスンやブルーなど)には、行動に憧れや共感を持って見続けていたけれど、主人公にはイライラしてしまうことがよくあったのもいま思えば、そのためなのでした。

真面目であることを、「なんだか損で本当はいやだ」とか、「『真面目だね』といわれるとなんだかばかにされているように聞こえる」という風なコメントがこのBBSでも書き込みされているのを拝見するたびに、私の中には主人公へのものと、同様の違和感が生じます。

なぜ「真面目だ」と他者が評価する様な個性を持っていることを、そういわれる(または自覚する)方達は生かそうとしないのかと。

(中略)

どんなに自分を素直に表現してみても、現在の社会の中では見向きもされず、虐げられるだけの存在が、現実に存在する。

だから、犯罪に走ったりすることや、自らを無くしてしまう人が、後をたたないのではないかと私は感じています。

そのような「弱い」立場の人を守り続けるのは、「真面目な」「やらなければならないことをやっている」と自称し、周りもそう認めている自分達なんだとはなぜ思わないのかと・・・。(←この一文のみ、文意を分かりやすくするため2006.11.3に構成を修正しました。)

(中略)

いま、自分に何ができるのか。

あるいは、自分はどんな人になりたいのか。

考えるべきことは、それだけなのではないでしょうか。

 

私は昴治が、ラスト直前になるまでほぼずっと、彼のままむりせずに変わらずにいたことに、やっぱりイライラしていたのでした。

でもそのような主人公の描き方は、現在の社会(日本の学校の中の意です)の問題点を的確に表現するためであれば、それもしかたのないことかもしれないとも、考えてしまっていました。

 

でも、黒のネーヤさんの投稿は、そう納得してはいけないんだということを、はっきりと気付かせてくださいました。

 

現実の問題を真剣に考えるために創られた『無限のリヴァイアス』であるならば、その主人公は、やるべきことから逃げ続けた昴治ではなく、やり続けたルクスンであるべきだったと、改めて感じました。

(ここでいう「やるべきこと」とは、いじめられている「今、立場の弱い人」を、なんとかして助けようとすることです。)

 

テレビも小説も、主人公がルクスンでないのならば、結局は私が求めていた作品ではなかったのです。

彼(ルクスン)が脇の方で懸命に行動し続けていても、描くべきテーマになるはずがない。

昴治が主人公である限り、現実に痛みを感じ続けている、本当の意味での視聴者の方々(黒のネーヤさんのような)は、前向きになりたくても、なれっこないのですから!

 

この少し後、再び黒のネーヤの書き込みが載りました。

 

コウジを最初から25話までを否定している人が、そうゆうキャラを主人公にしたアニメを好きになって、最終回だけで納得して長い文章を書き込んでいるのを見たり、あんなに頑張ってたルクスンをからかいながら、イクミがいい、ユウキがいい、ファイナがいいって、自己主張の得意ないかにもっていうキャラへの入れ込みを読んでると、やっぱりリヴァイアスってみんな自分の居場所を見つけて独り言を言ってるところなんだなぁ、て思う。

わたしに色々と書いてくれた人のを読んだけど、こう受け止められないのはおかしい、考え直してみろ、ていうのは毎日の中で聞きなれたセリフです。私もよく言ってた。イジメって、大勢が一人に向かってこれをやってるんですよ。

でも、誰かが「自分の方が間違ってたかもしれない」って書いてくれたのを見たとき、ちょっとどきっとして、おじいちゃんがよく言っていた言葉を思い出しました。(まだ私のことをおぼえていてくれた頃に)

 

自分を照らしてるのは自分だっていつも感じていたいからって、暗闇を好むような人間になってはだめだよ

 

いつのまにか私も、そんなふうになっちゃってた。

おじいちゃんとの約束を果たすための最初の一歩として、リヴァイアスの無限の暗闇から離脱します。

 

たった二回しか登場しなかった黒のネーヤ。

「無限のリヴァイアス」本編と掲示板での出来事をイメージしながら、改めてドラマの野ブタ。の物語を振り返ると、周りに合わせる修二は昴治、マイペースの彰はルクスン、そして信子は掲示板の黒のネーヤのように思えます。

そしてヒールな蒼井は、黒のネーヤに「こう受け止められないのはおかしい、考え直してみろ」って助言しちゃった大勢の人たち・・・。


誰が「野ブタ。」をプロデュース? その3(11.3)

「祐希~!危ないからそんなところにのぼっちゃダメだよ~!!」

「わかった~、お兄ちゃん。」

 

「ったく。お前はまるでお姉ちゃんだな」

「えっ?」

「まるで祐希のお姉ちゃんみたいだって言ったんだよ。」

「・・・!!」

 

あの日、遊び仲間のKに言われたその一言が、何故か心に深く刺さってしまった・・・。

そうだ。それからだったんだ。祐希との間がぎくしゃくしていったのは。

 

それまでオレは、ずっと祐希の父親がわりになろうとしていた。そうでなければいけないと思っていた。

ひとりぼっちの母さんを、助けたかったから。

でも無意識にオレがなっていたのは、母親だったんだ。

仕事で忙しくて留守がちだった母さんの代わりに、自分が出来るだけのことをして守りたかった。

祐希の泣く姿は、なるべく見ないでいたかったから・・・。

 

 

リヴァイアスの主人公・昴治には祐希という弟がいました。

いつも弟に反発され、苛立ち怯えながらも拒絶しない兄として描かれる昴治でしたが、そんな彼にしたのは実はこんな幼少期があったからなのでは? と作ったネタ(↑)を掲示板に載せてもらったことがありました。

・・・で、ドラマの野ブタ。でも主人公には原作と違って弟がいて、仕事でいつもいない母親の代わりをしているという設定になっていて、その弟の名は浩二(こうじ)!

 

わたしを誰かにつなげるために

想いを言葉に出来たのに

 

転校した朝の初めての言葉

教室の中での真剣な言葉

 

なぜかこころが後退りする

 

言葉を声にするのには

とても勇気がいることと

そう気づいたわたしはいつからか

言葉を文字で綴りはじめた

 

それはとても便利で楽だから

誰かをわたしにつなげるために

わたしをわたしにつなげるために

 

リヴァイアスの掲示板に、「少女の憂鬱」と題されたヤマダキという人の詩が載ったことがありました。

そして、野ブタ。の信子は転校生。

 

そういえばリヴァイアスの掲示板では、なぜか「超光戦士シャンゼリオン」のことが話題に上ったこともありましたっけ。

で、修二と彰が歌うドラマの主題歌「青春アミーゴ」は本編とは関係ない感じで、むしろシャンゼリオンチック。

そしてシャンゼリオンの主人公の名前は「暁(あきら)」・・・。

 

こんな風に、両作品の共通点が思いのほか多いだけでなく、極悪ヒールキャラの蒼井を置いて主人公たちの成長を明示してくれた野ブタ。。

これで、ワタシが「リヴァイアス」に抱いていた不満のほぼ全てがクリア♪

もしかしたら、ドラマの野ブタ。を作ったスタッフには、あのリヴァイアスの掲示板の住人がいるのでは・・・そんな気さえします。

黒のネーヤとヤマダキじゃない、ってことはわかってるんですけど。


有坂美香 in ルートカルチャー・フェスティバル(11.26)

妙本寺の会場は、チケットのもぎりがあるわけでもない、全くのオープンスペース。祖師堂の前に置かれた、固めのウレタン製のベンチに腰かけて聴くスタイルなので、一般の参拝客の振りしていればチケットなくても聴けてしまいます☆

この中途半端さが、かえって人の良心に訴えるのか、ワタシとnobukoの夫はそれぞれチケットを買って首にかけました。

 

ただ、フェスティバルの主旨やらチラホラ集まって来たお客さんの雰囲気から、なんとなく「LIfe goes on」はなさそうな気配だったため、子供達の分のチケットは買わずに境内の外で待たせることにしました。本覚寺の屋台でゲットしたサンドイッチを持たせて。

 

ちなみにこの妙本寺は、学生時代にnobukoの夫と何度か訪れたことがある思い出の場所です。祖師堂手前にある鐘楼に腰かけて、よく話をしましたっけ♪


ステージとなる祖師堂の拝段の上では、有坂さんがリハーサル中。「Life goes on」のカップリング曲、「時の砂漠」を歌ってました。・・・ってことは、「LIfe goes on」もあるのか?


いよいよ開演。陽射しが無いうえ、周囲の森の放つ冷気のために、鼻をすすりながらのステージです。


レギエ・ロックっていうんでしょうか、まったりアンニュイな感じの曲中心の選曲。曲の合間の短いトークでも、アニメソングを歌っている自分に後ろめたさを感じてらっしゃる(?)様子がチラリ。

 

もっと思いを開放(解放?)して・・・というようなアンニュイじゃないメッセージもありましたが、どうやら周りに合わせて縮こまらず自分のコアなところを外に向けて解き放ちましょう、っていう意味合いらしく受け止められました。

 

結局、「Life goes on」 は聴けませんでした。


ステージが終わり、席を立つ人たち。有坂さんの次には別のミュージシャンが控えているのに、大方のお客さんは捌けてしまいました。

 

「物理学とか社会学でいう開放系って、外からのエネルギーがどんどん流れ込んで来て、自分の中のモノも変わりながら外に流れ出ていく・・・そんなダイナミックなコミュニケーションを重ねることで、個が成長しながら全体としてひとつになっていく、そんな概念なんだよね。」とnobukoの夫がポツリ。

 

「自分の歌いたい歌」と「他人に期待されている歌」の区別が、有坂さんの中でなくなってくれればいいのになぁ。


続いて、無料のステージが行なわれる本覚寺へ移動。

 

妙本寺から徒歩五分ほどの本覚寺の境内では、色々な屋台が立っていて沢山の人で賑わっていました。

 

ここで問題。このなかに有坂さんが写っているのですが、さてどこでしょう?


夷堂の前の石舞台で始まった無料ライブ。

 

こちらは陽射しがいっぱいで、眩しそうに歌う有坂さん。


曲目は妙本寺の時とほとんど同じ。さっきよりも少しノリがいい感じです。


有坂さんの歌に手拍子しながら身体を揺らしてた、ちょっとおしゃまな女の子。だんだん石舞台に近づいて、いつの間にか石段に腰かけて聴きはじめました。

 

そんな小さなお客さんとのコミュニケーションを楽しみながら歌う有坂さん♪


熱唱する有坂さんの背後では、夷堂にお参りする人たちが・・・


参拝を終えると、なんとステージへ!


石舞台の前はどんな様子かというと、境内に敷き詰められた小さな砂利を集めて遊ぶ子供たちに、屋台のもつ煮込みを食べながら雑談する若者たち。

 

こんな雑然とした雰囲気のなかで行なわれたライブでしたが、ワタシ的には素朴な感じがICU祭っぽくて結構好きでした♪

 

でも、どうせお寺でやるんならレゲエ・ロックじゃなくって、有坂さんが鎌倉の教会で歌っている(いた?)というゴスペルを聴かせてほしかったな!

 

「Life goes on」が聴けなかったのは、やっぱりとても残念でした・・・★



キャサリン☆キャサリン(12.8)

「今度やるDESTINY総集編の最後回、『自由の代償』ってタイトルなんだって!」

「なるほど、デュランダル議長の完全統制社会を拒否して『人の自由』を守ったキラたちが、覚悟のうえで背負った代償がいよいよ描かれるのか・・・って、それじゃ「映画」で描かれるはずのポストDESTINYの物語だ。」

「じゃあ、どんな意味なのかな、このタイトル?」

「人間が、自らが生まれながらに宿した命の設計図をも書き換えるという自由の果てに得た、断絶と衝突、そして自由を否定する思想・・・そんなことを指してるのかな。」

 

ところでとうとう観ました、イオン風ラクス! じゃなくって「イーオン・フラックス」。

あらすじを読むと面白そうなんだけど中身はどうなのかな~と思ってネット上であちこちの感想を読んでみたら、主演の人のスタイルのよさを誉めるものばかり★

それだけなら止めとこうかな~と思いつつも、ヤッパリ惹かれるものがあったので、先週末のTSUTAYAの「旧作のみ半額デー」で借りてみたら、ワタシにとっては近年まれに見るヒットでした♪

 

閉ざされた世界に暮らす人々・・・。

頻発する失踪事件・・・。

身近な人を失った悲しみを訴える人・・・。

平穏を乱されまいと黙殺する周囲・・・。

畳や蛇の目傘といったジャパネスクな道具立ても鼻につくどころかむしろお洒落な感じで、色んな意味で日本社会と重なって見える舞台設定。

 

そこで繰り広げられるドラマの主題は、実にストレートでした!

あちらでは自由の大小だの代償だのってところで立ち止まっちゃったら、もうヒーロー(ヒロイン)じゃないってことなのかな。(笑)

格闘しているシーンは恐かったけど、珍しくCGが気にならない映像で、なによりワルかと思った「議長」がホントはいい人だった(?)っていうのも面白かった~☆

監督は日系女性だそうで、他者とのコミュニケーションのニュアンスが魅力的に描かれていたのはそのせい?

 

なんといってもワタシにとっての収穫は、黒の全身タイツで大立ち回りするイーオンの昔の名前が「キャサリン」だったってところ!

「野ブタ。」に出てきた黒猫みたいな教頭先生のあだ名を「キャサリン」にしたお方、きっと「イーオン・フラックス」(の漫画かアニメ)のファンに違いないっ♪(違?)

同じく「旧作半額デー」にちょうど借りられた「野ブタ。をプロデュース」の第一巻で、キャサリン教頭初登場シーンが人間離れしたクルッと空中大回転だったのも、素直に納得できちゃったワタシ。(笑)

 

それにしても、これほど素晴らしい作品を目の当たりにしちゃうと、旧作半額デーまで待って(?)いたことがもったいないことに感じられました。

DESTINYの最終回を味わえたのも、オンタイムで観ていたからこそ。

イーストウッドの「硫黄島からの手紙」は、ぜひともロードショー中に観なければー!