流山埋蔵金伝説!?

振り返れば埋蔵金がある!?

「振り返れば奴がいる」を書いた三谷幸喜氏の「新選組!」ファンだった我が家。

実はnobby@shufuracyの夫には、新選組の最後にまつわる荒唐無稽な持論があるんです。

 

「新選組!」で香取慎吾が演ずる隊長・近藤勇。

慶応4年(1868)正月の「鳥羽・伏見の戦い」で敗走し勝沼(山梨県)での官軍との戦いにも再び敗れ江戸に戻った彼はその後、元新選組隊士や新たに集まった人たち約500人を率いて流山(千葉県)に入り、当時長岡屋という酒造家に『最後の陣営』を敷き再起を図る。

彼はそこから敢えて動こうとはせず、4月3日に追いついてきた官軍に自ら下り、捕縛。

そして4月25日、板橋庚申塚(東京都)で斬首処刑、三五歳。

 

土方歳三が止めたにもかかわらず、近藤が自首したのはなぜか?

一般には、流山の住人を戦火に巻き込みたくなかったから、と言われているが、それならなぜわざわざ流山に陣を敷き、官軍が追い付くのを待つかのように陣を停め続けたのか?

 

この謎を説く鍵が、近藤が最後の陣を敷いた流山という地名にあると、nobby@shufuracyの夫はみています。

この地名の由来にはいくつかの説が有るようですが、よく言われているのが次の二つ。

 

(1)建長年間(13世紀半ば頃)上州赤城山の一部が流れ着いた所。

(2)同じ頃、赤城山より流れ着いたお札をお祭りした所。

 

赤城山といえば、思い出すのが「徳川埋蔵金」です。

大老・井伊直弼が徳川幕府再興の資金として、甲州流軍学者、大学頭幕府学問所頭取、林鶴梁に命じて三百六十万両を赤城山麓に埋蔵することを計画させ、慶応4年(1868)にそれまで陸海軍の奉行を兼ねる勘定奉行であった小栗上野介が埋蔵に当たったとされている黄金伝説。そう、以前TV番組で糸井・石坂コンビがひたすら掘り続けたにもかかわらず、結局発見されなかったアレです。

 

で、近藤が最後の陣を敷いたのは、流山の地名の由来となっているお札をお祭りした赤城神社(赤城山という小高い丘の上にある)のすぐそばなんですって。

ここまでくれば、もうおわかりですね。そう、きっと小栗は上州ではなく下総の赤城山、すなわち流山の赤城神社周辺のどこかに幕府再興資金を隠した、っていうんです。

そして、それを知っていた近藤はその一部を入手すべく流山に入り、隠し場所を探していたため、官軍が迫っているにもかかわらずに陣を移すこともせず、最後は軍資金が官軍の手に渡ることを恐れて自首した、というのがnobby@shufuracyの夫の推理です。

 

では、莫大な埋蔵金は一体どうなったのか。官軍が接収したという話は聞きませんから、nobby@shufuracyの夫はその多くは未だ流山のどこかに隠されていると信じているようです。

あるいは、その一部は副長・土方歳三の手により持ち出されたのかもしれません。

流山を出て後、北関東、会津と転戦し仙台にて榎本武揚の艦隊に合流、五稜郭にて樹立された函館新政府の陸軍奉行となり、明治2年(1869)5月11日に35歳で戦死するまで、東京新政府に抵抗し続けた土方の軍資金として用いられたとしても不思議ではないでしょうから。

 

というわけで、どなたか流山の赤城神社辺りを発掘(?)しないかなぁ~♪

近藤 掘れワンワン!?

日本考古学研究会様(トレジャーハンターの皆さんの集まりとのこと)のHPのなかの「徳川幕府の財宝」のページによると、群馬の赤城山に残って盗掘から埋蔵金を守っていた見張り役・児玉惣兵衛(本名:藤原広則)は、いくつか手がかりを言い残しているそうです。

 

「角田源次郎所有の井戸に気を付けよ」

 

この井戸を掘り返したら、一個の壷が掘り出され、その中に、直系五寸の銅の皿を伏せたものの上に約三寸五分の東照権現(家康)の黄金像をのせたものが出てきたそうです。そして、銅の皿には中央に十字の印が描かれ 上の方に「子」とあり、横に「社」の字が彫り込まれていたとのことです。

素直に考えると、「子」というのは北を示す文字で、「社」は神社やお寺などの社を示しているのではと思われます。

「子」と「社」の字の位置関係がどのようなものだったのか、ワタシは確認していませんが、仮に「子」の右隣に「社」の字があったとすれば、北東方向にある社ということになりそうです。

では、どこから見て北東方向なのか? 銅の皿の十字の印の中心はどこ?

東照権現が祭られている日光という見方もありかもしれません。でも、北東というのは鬼門の方位に当たりますから、どこか大切な地点の鬼門を指している、つまり中心は江戸城と考えるのが自然でしょう。(ちなみに、日光東照宮は江戸からほぼ真北に作られているんですよね)

江戸城から北東方向にある社・・・、いっぱいあります。う~ん、銅皿には他に社を限定するための情報は無かったの・・・って考えてたら、あるじゃないですか!

 「子社」。そう、この文字は「北東の社」という意味の他に、親社の子供にあたる社ということも示しているんですよ、きっと。

でも、江戸から北東の方向、すなわち江戸の鬼門に親社の子供にあたる社を探すとして、もう少し範囲を狭められないでしょうか。

 

「赤城、榛名(はるな)、武尊(ほたか)山を結ぶ不動の線に心せよ」

 

地図を見ると、赤城山、榛名山、武尊山はちょうど三角形を描くように位置しています。それぞれを結ぶ不動の線と言われれば、三角形の辺? それとも辺と頂点から得られる重心? と思うのですが、ここでワタシは突拍子も無いことを思いついたのです。不動って言うのは、不動尊をお祭りする有名なお寺なのではないか?

関東で有名なお不動様、関東三大不動と言われているのは成田不動尊、高幡不動尊、大山不動尊。この三つを赤城、榛名、武尊それぞれと結びつける? それとも、やっぱり三つの山を結んだその後で、どれかのお不動様と線でつなぐ?

 

単純なワタシはまず、赤城、榛名、武尊という三つの山の名前を、色々と並びを変えながら結びつけて読んでみました。

 

あかぎ、はるな、ほたか

ほたか、はるな、あかぎ

はるな、ほたか、あかぎ・・・!?

HARUNA HOTAKA AKAGI

HOTAKAのAKAと、AKAGIのAKAは重複するのでまとめてしまうと、

HARUNAHOTAKAGI=はるなほたかぎ=春なほ高き!

 

春なほ高き山・・・。

冬はもちろんのこと春になってもまだ高い山。

冬に高さが際立ち、春は春で高く望む山。

とにかく高い山・・・富士山?

そう、「春なお高き富士の山」なんですよ、きっと!

 

で、富士山を関東三大不動と線で結んで見ました。

そしたらなんと、富士山と高幡不動尊を結んだ線を東に延ばしたその先、ちょうど江戸の鬼門に当たる辺りに流山があるではあ~りませんか!!

というわけで、行ってきました流山の赤城神社♪

江戸川沿いの平らな土地の中に、そこだけこんもりとした赤城山。その頂きに赤城神社はありました。江戸川から歩いて5分ほど(これなら運べる!)、近藤勇が最後の陣を敷いた長岡屋から歩いて10分ほどのところです。

200年以上前から毎年作り替えられているという、三本の太い縄をより合わせて作られた大しめ縄をくぐり、石段を登って拝殿前まで進んでビックリ。

賽銭箱に大きく飾られている神紋は、巴紋に縁取られた三葉葵ではあ~りませんか!

う~ん、やっぱりここには何かある♪

境内には弁財天の石碑や大黒天とおぼしき石像もあり、そこはかとなく財宝の匂いが漂っています。

 

境内を一通り回って赤城山を下り、隣の光明院へ。

こちらは、新選組が流山に陣を敷いた時に分宿した場所の一つだそうですが、赤城神社の別当祈願所であったこのお寺の山号は赤城山(あかぎさん)。真言宗なので、ご本尊は不動尊!

 

おまけといってはナンですが、このお寺にはしょっちゅう野良のワンちゃんが迷い込むそう。境内には三匹の元ノラが飼われていましたが、このワンちゃんたちこそ、きっと「ココ掘れワンワン」のワンちゃんたちなんですよ!

 

ここまで材料が揃えば、もう間違いない。

埋蔵金はココで決まりっ!!

でも、近藤たちは掘り起こしに来たのか、はたまた埋めに来たのか・・・どっち!?